A LITTLE PRINCESS

小公女・原作

プリンセス編 小間使い編 魔法編

小公女セーラ物語

その後のダイヤモンド鉱山

屋根裏にて メルチセデク

印度の紳士

ラム・ダス 壁を隔てて

人の子

メルチセデクの見聞記  

その後のダイヤモンド鉱山

 お誕生日の午後、セエラは着飾ったミンチン先生に手を引かれ、先頭に立って、柊で飾られた教室に入って行きました。セエラのうしろには、『最後の人形』の箱を持った しもべ が続きました。次は第二の贈物の箱を持った女中、それからさっぱりした前掛を掛け、新しい帽子を被ったベッキイが、やはり贈物の箱を持ってついてきました。
 セエラはほんとうは、そんな 仰山 ぎょうさん な真似はしたくなかったのでしたが、ミンチン先生はわざわざセエラを自分の部屋に呼んで、自分と一緒に行列の先頭に立てと仰しゃったのでした。セエラがぎょうぎょうしく教室に入って行くと、上級の少女達は肱をつきあいました。小さい少女達はただ嬉しそうにざわざわいいはじめました。それを見ると、セエラは何となく気はずかしくなるのでした。ミンチン先生は
「皆さん、静かになさい。」と一応注意してから、 僕達 しもべたち に向って、
「ジェームス、その箱をテエブルの上に置いて、蓋をお開けなさい。エムマ、お前のは椅子の上にお置きなさい。それから、ベッキイ!」と急にきびしい口調でいいました。ベッキイはちょうどロッティと眼を見合せながら、にやにやしているところでしたので、ミンチン先生の尖った声を聞くと、びっくりして一種滑稽なお辞儀をしました。それを見ると、ラヴィニアやジェッシイはくすくす笑い出しました。
傍見 わきみ なんかしてちゃアいけません。その箱を下に置くんですよ。それがすんだら、お前達は向うへ行くんですよ。」
 僕と女中が退いてしまうと、ベッキイは思わずテエブルの上の箱の方へ首を伸しました。青繻子で出来た何かが、薄い包紙の皺の間に、透いて見えました。
「あの、ミンチン先生。」とセエラは突然いいました。「ベッキイさんだけは、もうちょっとの間、ここにいてもいいでございましょう?」
「ベッキイなんかを、どうしてここに置くのです。」
「でも、あの娘だって贈物を見たいでしょうから。あの娘だって、私達と同じ小さい女の子なのですもの。」
「まア、セエラさん、ベッキイは下女ですよ。下女なんて――あなた方のようなお嬢さんとは身分が違います。」
 ミンチン女史は、今までに一度も、ベッキイをセエラ達と比べて考えてみた事はありませんでした。女史の考えに従えば、小使娘などというものは、石炭を運んだり、火をおこしたりする機械でしかなかったのでした。
「でも私、ベッキイだって、私と同じ女の子だと思います。今日は私のお誕生日ですから、私のお願いをかなえて、あの娘をよろこばしてやって下さいませんか。」
「じゃア、今日は特別に許してあげましょう。レベカ、お前セエラさんにお礼を仰しゃい。」
 この話の間、ベッキイは、部屋の片隅にしりごみしながら、前掛の へり をいじくっていましたが、ミンチン女史にそういわれますと、ひょこひょこ出てきてお辞儀をしました。彼女は思うようにお礼の言葉もいえませんのでした。
「ほんとに、どうも、お嬢様。もううれしくって、私はお人形が見たくてたまらなかったの。ありがとうございます。それから、先生、ありがとうございます。」
「あっちの隅に立ってお出で。」ミンチン先生は出口の方をさしていいました。
「あんまり皆さんのそばに寄っちゃアいけないよ。」
 ベッキイはにやにや笑いながらその隅へ退きました。どんな隅にでも居残ることを許されたのは、台所で胸をわくわくさせているより、どんなにいいかしれませんでした。ミンチン先生はやがて一ツ咳払いをして、そうしていいました。
「皆さんがたにちょっと申し上げておきたいことがあります。御存じの通り、セエラさんは今日十一歳になられました。」
「ひいきのセエラ嬢だ。」と、ラヴィニアがそっと囁きました。
「あなたがたの中にも、もう十一になられた方が五六人はあるでしょう。が、セエラさんのお誕生日は、それらの方々のお誕生日とは、少し意味が違います。というのは、セエラさんはもう少し大きくなると、非常な財産を相続なさるからです。その時が来たら、セエラさんは、世の中のためになるように、そのお金を使わなければならないと思います。」
「ダイヤモンド鉱山のことか。」とジェッシイは小声でいって、忍び笑いをしました。
 セエラは先生のいうことを聞いていたわけではありませんでしたが、青鼠色の眼でじっと先生を見ていると、何となくくわっとして来るのを覚えました。先生がお金のことを話していると知ると、私はあの先生が好きだったためしはないというような気持になりました。子供のくせに、大人を憎むなんて、生意気なことだとは解っていましたが。――
 ミンチン女史は訓話を続けました。
「クルウ大尉が、セエラさんを印度から伴れて来て、私に預けた時、大尉は 戯談 じょうだん らしくこういわれました。『先生、私はこの娘が近い将来に大変な成金になるのだと思うと心配です。』で、私は大尉にこうお答え申し上げたのです。『私の教育は、お嬢様の財産の飾りとなるようなものでなければなりますまい。』と。今セエラさんは、学校中で一番よくお出来になる生徒さんです。セエラさんのフランス語や舞踏は、学校の ほこり と申さねばなりません。それにセエラさんのお行儀は、プリンセス・セエラと呼ぶにふさわしいほど、非の打ちどころがありません。セエラさんは今日、皆さんに対する愛情のしるしとして、このお茶の会を開くことになさったのです。皆さんはセエラさんの物惜しみしない気持を、きっとうれしくお思いになることと存じます。そのしるしに皆さん、大きい声で『セエラさん、ありがとう。』と仰しゃって下さい。」
 皆は、いつかセエラが初めて来た時のように、いっせいに立ち上って、
「セエラさん、ありがとう。」といいました。ロッティなどは、いいながら高く飛び上ったほどでした。セエラは はずか しそうにもじもじしていましたが、やがて裾をつまんで、優雅な礼をしました。
「皆さん、ようこそお出で下さいました。」
「セエラさん、よく出来ました。」とミンチン先生は褒めました。「まるで 宮様 プリンセス が人民から『万歳』をあびせかけられた時とそっくりです。ラヴィニアさん、今あなたは いびき のような声をたてましたね。セエラさんが ねた ましいのなら嫉ましいで、もう少し上品に、嫉ましさを表したらいいでしょう。さ、皆さんは何でも好きなことをしてお遊びなさい。」
 先生の 背後 うしろ ドア が閉されるや否や、少女達はまるで呪文を解かれたように、椅子から飛び出して、箱の 周囲 まわり に駈け集りました。セエラもうれしそうに、箱の一つを覗きました。
「これは、きっと本よ。」
 すると、アアミンガアドは
「あなたのパパも、お誕生日に本を下さるの? 私のパパとちっとも違わないのね。そんなもの開けるのおよしなさいよ。」
「でも、私は本が大好きなのよ。」
『最後の人形』は実に見事なものでした。少女達はそれを見ると、声をあげ、息もつまるほど喜びました。
「ロッティと大してちがわないくらいね。」
 いわれてロッティは手を叩き、笑いこけながら踊り廻りました。
「まるでお芝居にでも行くように盛装しているのね。」と、ラヴィニアまでいいました。「外套には貂の毛皮がついているわ。」
「あら、オペラ・グラスまで持っててよ。」とアアミンガアドは前へ出てきました。
「トランクもあるわ。開けてみましょうよ。」
 セエラは床に坐って、トランクの鍵を外しました。 懸子 かけご が一つはずされるごとに、いろいろの珍しいものが出てきました。たとえばレエスの 衿飾 えりかざり や、絹の靴下、それから首飾や、ペルシャ頭巾の入った宝石函、長い 海獺 らっこ のマッフや手套、舞踏服、散歩服、訪問服、帽子や、お茶時の服や、扇などが、あとからあとからと出てくるのでした。
 セエラは無心にほほえんでいる人形に、大型の 黒天鵞絨 くろびろうど の帽子をかぶせてやりながら、こういいました。
「ことによると、このお人形には私達のいっていることが解るのかもしれないわね。皆さんにほめられて、得意になっているのかもしれないわね。」
 すると、ラヴィニアは大人ぶっていいました。
「あなたは、いつもありもせぬことばかり考えているのね。」
「そりゃアそうよ。私空想ほど面白いものはないと思うわ。空想はまるで妖精のようなものよ。何かを一生懸命に空想していると、ほんとうにその通りになってくるような気がするものよ。」
「あなたは何でも持っているから、何を空想しようと御勝手よ。でも、万一あなたが乞食になって屋根裏に住むようになるとしたら、それでもあなたは、空想したり、つもりになったりしていられるでしょうかね。」
「私きっと出来ると思うわ。乞食だって空想したり、つもりになったり出来ないことはないと思うわ。でも、辛いことは、辛いでしょうねえ。」
 そのとたんに、アメリア嬢が入って来ました。セエラはあとで思い返して、ほんとうに不思議なとたんだったとよく思いました。
「セエラさん、あなたのお父様の代理人のバアロウさんがいらしって、ミンチン先生とお二人きりで御相談なさらねばならないことがあるそうですから、あなたがたは客間に行って、御馳走を食べてらっしゃい。その間に姉は、この教室でバアロウさんとお話を済ますでしょうから。」
 御馳走と聞いて、皆は眼を光らせました。アメリア嬢は皆を並ばせ、セエラを先頭に立てて、客間の方へ出て行きました。あとには、あの『最後の人形』だけが、 おびただ しい衣裳とともに教室に残されていました。
 ベッキイだけは、御馳走をいただくことも出来ないと思いましたので、悪いこととは知りながら、ちょっとあとに残って、美しい人形や、衣裳を眺め廻しておりました。ちょうどベッキイがそっとマフを摘み上げ、それから外套を手に取って見ている時でした。ベッキイはミンチン女史の声が、戸のすぐ外にするのを聞き、震え上って、テエブルの下に身を隠しました。
 ミンチン女史は、骨張った体つきの、小柄な紳士を伴れて入ってきました。紳士は何か落ちつかない風でした。ミンチン先生も確かに落ちついていたとはいえません。彼女はいらいらした顔つきで、この小柄な紳士を見つめました。
「バアロウさん、どうかお掛け下さい。」
 バアロウ氏は、すぐには腰を下しませんでした。氏は、そこらに散らばっている人形や、人形の小道具に眼を惹かれているようでした。彼は眼鏡をかけ直し、何か咎めだてるように、それらのものを見詰めました。『最後の人形』は、そんなことは、一向無頓着に、ただ 真直 まっすぐ に立って、彼を見返しているばかりでした。
「千円はするだろうな。皆高価な材料で出来ているし、しかもパリイ製だからな。あの若僧は、めちゃくちゃに金を使っていたとみえるな。」
 ミンチン女史はむかむかとしました。バアロウ氏は、いくら代理人でも、クルウ大尉のすることに、さし出がましいことをいう権利はないはずです。ミンチン女史は、セエラとセエラの学校のために、惜しげなくお金を出してくれる、大事なクルウ大尉のことを、悪くいわれたくなかったのでした。
「バアロウさん、失礼ですが、どうして、そんなことを仰しゃるのですか。」
「十一になる子供の誕生祝いに、こんなものを贈るなんて、まったく気違いじみているじゃアありませんか。」
「しかし、クルウ大尉は財産家でいらっしゃるじゃアありませんか。ダイヤモンド鉱山だけでも――」
 バアロウ氏は、くるりと女史の方へ向き直りました。
「ダイヤモンド鉱山なんて、そんなもの、あるものですか。そんなものは、あったためしもない。」
 ミンチン女史は、たちまち椅子から立ち上りました。
「え? 何と仰しゃいます?」
 バアロウ氏は、意地悪く答えました。
「とにかく、そんなものは、なかった方がよかったくらいです。」
「なかった方がよかったって?」
 ミンチン女史は、椅子の背をしかと掴んで叫びました。何か素敵な夢が消えて行くような気がしました。
「ダイヤモンド鉱山などというものは、富よりも破産を意味する場合が多いものです。事業に明るくない人が、親友の手の うち にまるめこまれて、その親友の鉱山に投資するなんて、大間違いです。死んだクルウ大尉にしても――」
 今度は、ミンチン女史が皆までいわせませんでした。
「死んだ大尉ですって? まさか、あなたはクルウ大尉が――」
「大尉は亡くなられました。事業が面白くないところへ、マラリヤ熱に襲われて亡くなられたのです。」
 ミンチン女史は、どかりと腰を落しました。女史はぼんやりしてしまいました。
「面白くなかったと申すのは?」
「ダイヤモンド鉱山がです。大尉はその親友のためにも、破産のためにも、悩まれたようですな。」
「破産ですって?」
「一文なしになられたのです。大尉は若いくせに金がありすぎるくらいだったのでしたが、その親友がダイヤモンド鉱山に夢中になって、大尉の金まですっかりその事業に注ぎこんでしまったのでした。親友が逃げたと聞いた時には、大尉はもう熱病にとりつかれていました。おそろしい打撃だったに違いありません。大尉は 昏々 こんこん と死んで行きました。娘のことを口走りながら――が、その娘のためには、一文も残さずに。」
 ミンチン先生は、それでやっと事情をのみこむことが出来ました。こんなひどい目にあったのは初めてでした。お自慢の生徒と、お自慢の出資者が、一度に模範学校から、 さら い取られてしまったのです。女史は何か盗まれたような気がしました。クルウ大尉も、セエラも、バアロウ氏も、皆悪いのだというような気がしました。
「じゃア、あなたは、大尉が一文も残さずに死んだと仰しゃるのですね。つまり、セエラには財産がない。あの娘は乞食だ。お金持になるどころか、食いつぶしとして、私の手に残されたのだと仰しゃるのですね。」
 バアロウ氏は、抜目のない事務家でしたので、もうここらで自分の責任を果してしまった方がいいと思いました。
「乞食として残されたに違いありません。またあなたの手に残されたのにも違いございません。他に身よりというものはないようですからな。」
 ミンチン女史は急に歩き出しました。女史は今にも部屋から飛び出して、今たけなわな 祝宴 しゅくえん をやめさせてしまおうと思っているようでした。
「莫迦にしている。あの子は今私の部屋で、私のお金で、御馳走をしているのだ。」
「そりゃアその通りですな。」バアロウ氏は平気でいいました。「我々代理人は、もう何の支払いも出来ませんからな。クルウ大尉は、我々への支払いもせずに死んでしまいました。それも、かなりな額だったのです。」
 ミンチン女史は、ますます不機嫌になって、ふり返りました。こんな災難がふりかかろうとは、今の今までは、夢にも思わないことでした。
「私は、あの娘のために、どんなにお金を使ったって、きっと払ってくれることを、信じきっていたのです。あの莫迦々々しい人形の代も、衣裳の代も、皆この私が立てかえておいたのです。あの子のためなら、何でも買ってやってくれ、といわれていたのですからね。あの子は馬車も持っているし、小馬も持っているし、女中もつけてある。この前の送金があってからこっちは、私がみんなその費用を立てかえているのですよ。」
 バアロウ氏は、それ以上ミンチン女史の愚痴話を聞こうとしませんでした。
「これ以上は、もうお支払いなさらんがいいでしょう。あの御令嬢に贈物をなさる思召しなら別ですがな。」
「ですが、私は、この際どうしたらいいのでしょう。」
 女史は、バアロウ氏に処置をつけてもらうのがあたりまえだというように、訊ねました。
「どうするも、こうするもないですな。」バアロウ氏は眼鏡をたたんで、ポケットに入れました。「クルウ大尉は死んでしまったと。子供は食いつぶしになってしまったと。あの娘について責任のあるものがあるとすれば、あなたぐらいなものですな。」
「何で、私に責任があると仰しゃるのです。そんな責任は、断然おことわりします。」
 ミンチン女史は、立腹のあまり蒼白くなりました。バアロウ氏は立ちかけて、気のない声でいいました。
「あなたが、責任をお持ちになろうと、お持ちになるまいと、私はこの際どうすることも出来ません。こんなことになって、お気の毒とは存じておりますが。」
「それで、私にあの娘をおしつけたおつもりなら、大間違いですよ。私は泥棒にあったのだ、 だま されたんだ。あの娘は、おもてに追い出してやるばかりだ。」
 バアロウ氏は、平然と戸口に立っていいました。
「私なら、そんなことはしませんな。世間の眼によく見えるはずはありませんからね。この学校に関して悪い評判がたつばかりでしょうからね。それよりもいっそ、あの子を養っておいて、役に立てたらいかがです。なかなか利口な子だから、大きくなりさえすれば、あの子からうんとしぼれますぞ。」
「大きくならないうちにだって、うんとしぼりとってやるから。」
「確かにしぼれるでしょう。では、さようなら。」
 バアロウ氏は、皮肉に笑ってお辞儀をしながら、戸を閉めて去りました。ミンチン女史は、しばらく突っ立ったまま、閉された戸を睨んでおりました。男のいったことはほんとうだと、彼女は思いました。もうどうすることも出来ないのです。今まで一番大事な生徒だったセエラは、いきなり乞食娘になってしまったのです。今までセエラのために立てかえたお金は、もう戻してもらう すべ もないのです。
 ふと、宴会場にあてたミンチン女史の部屋から、わっという歓声が聞えて来ました。この宴会だけでも中止して、そのために使ったお金を取り戻そうと、女史は思いました。が、女史がその方へ立ちかけたとたんに、アメリア嬢が戸を開けて入って来ました。アメリア嬢は姉のただならぬ様子を見ると、思わずあとじさりしました。
「姉さん、どうしたの?」
 姉は、 みつくような声でいいました。
「セエラ・クルウはどこにいる?」
「セエラ? セエラは子供達と一緒に、姉さんのお部屋にいるのにきまってますわ。」
「あの子は、黒い服を持ってるかい?」
「え? 黒い服?」
「たいていの色の服は持ってるようだけど、黒いのはあったかしら、というんだよ。」
 アメリア嬢[#「アメリア嬢」は底本では「サメリア嬢」] 真蒼 まっさお になりました。
「黒いのはないでしょう。あ、あるわ。でも、あれはもう丈が短すぎるわ。古い黒天鵞絨の服で、あの子が小さい時着ていたのですわ。」
「あの子にそういっておくれ、早くその大それた桃色の服を脱いで、短くても何でも、その黒い服を着ろって。いい着物どころの騒ぎじゃアないんだから。」
「まア姉さん、何事が起きたの?」
「クルウ大尉が死んだのさ。一文なしで死んじゃったのだよ。あの気まぐれな我儘娘は、私の居候になったわけさ。」
 アメリア嬢は、手近の椅子にどかりと腰を下しました。
「莫迦々々しい。私はあの子のために何千円ってお金を使ってしまったんだよ。もう一銭だって返しちゃアもらえないんだ。だから、早くあいつのお誕生祝いなんか止めてしまわなければ。すぐ着物をきかえろっていっておくれ。」
「あの、あたし、もう少したってからじゃアいけません?」
「たった今行って話せといってるんだよ。何だい、鵞鳥みたいな眼つきをしてさ。早くおいでったら。」
 アメリア嬢は、鵞鳥と呼ばれることには慣れきっていました。鵞鳥みたいな人間だからこそ、いやなことばかりいいつけられるのだと、自分でも思っていたくらいでした。でも、子供達のよろこんでいる 最中 さなか に出て行って、その会の主人公であるセエラに、お前はもう乞食になり下ったのだ、父の喪のためちんちくりんの黒い服に着かえなければいけない、というのは、何だかいやでなりませんでした。
 アメリア嬢は眼の赤くなるほど、 手巾 ハンケチ でこすると、黙って姉のいる部屋から出て行きました。妹が出て行ってしまうと、ミンチン先生は、思わず大きな声で 独言 ひとりごと をいいながら、部屋の中を歩き廻りました。この一年間、ダイヤモンド鉱山のことは、ミンチン女史にいろいろの未来を想わせていたのでした。ダイヤモンド鉱山の持主が助けてくれれば、株でお金を儲けることも出来ると思っていたのでした。が、今はお金儲けの代りに、自分がセエラのために使って失くしたお金のことを考えなければならないのでした。
「ふん、セエラ女王殿下か。あいつは、まるで 女王 クウィン ででもあるかのように、したい放題にふるまっていたのだ。」
 そういいながら、女史は腹立たしげに、部屋の隅にあるテエブルの かたわら を掠め過ぎようとしました。と、テエブル掛のかげから、急に 欷歔 すすりなき の声が響き出て来るのに 吃驚 びっくり して、思わず一 あし をひきました。
「どうしたというんだろう。」
 すすり泣く声がまた聞えたので、女史は身をかがめて、テエブル掛を捲り上げました。
「こんなところで、立ち聞きしていたな。さっさと出ておいで。」
 這い出してきたのはベッキイでした。ベッキイは泣き声を出すまいと こら えていたので、 真紅 まっか な顔をしていました。
「あのう、御免下さい。私悪いとは思ったのですけれど。でも、私、お人形を見ていたんですの。そこへ、奥様が入っていらしったので、私 吃驚 びっくり して、この中に隠れてしまったんですの?」
「じゃアお前は、そこで はじめ っから立ち聞きをしていたわけだね。」
「いいえ、奥様。立ち聞きするつもりなんぞありゃアしません。見つからずに逃げ出せるものなら、逃げ出そうと思ったのですけど、とても駄目だと思いましたから、仕方なしに、ここに隠れていたんです。立ち聞きなんてするつもり、ちっともなかったんですけど、でも、聞えたんだから仕方ありません。」
 ベッキイは、おそろしい奥様が目の前にいるということも忘れたかのように、わっと泣き出しました。
「お、お、奥様。わたし叱られると知っても申さずにはいられません。わたし、あのセエラ様がお可哀そうで、お可哀そうで――」
「出て行きなさい。」
「ええ、まいります。でも、ちょっとわたし奥様に伺いたいことがあるんでございますの。セエラ様は、あんなに御不自由なく暮しておいでだったのに、これから、女中なしではどうすることも出来ないでしょう。ですから、もしなんでしたら、わたしにお勝手の御用がすんだ後で、あの方の御用をしてあげさせて下さいませんか。出来るだけ早く片付けますから。」ベッキイは更にすすりあげながら、「奥様、セエラ様は、お可哀そうでございますわね。 宮様 プリンセス とさえいわれてらしったのに。」
 ミンチン先生はベッキイにこういわれて、なぜかよけいに腹を立てました、小使娘の分際で、セエラの肩を持つなんて しからん。――するとミンチン先生は、初めてはっきりと、セエラなんかちっとも可愛くなかったのだという事実を悟ったような気がしました。先生はがたがたと床を踏み鳴しながらいいました。
「あの子の用をしてやることなんて、断じて許さないよ。あの子には自分の用はもちろん、ほかの人の用までさせなければならないのだから。」
 ベッキイは前掛で顔を隠しながら、逃げて行きました。
「まるで、何かのお話の中のようだわ。あの辛い世の中に追い出される不幸な 宮様 プリンセス のお話そっくりだわ。」
          *        *        *
              *        *        *
 それから二三時間たつと、セエラはミンチン先生の所に呼び迎えられました。その時の先生は、今までにないほど冷かな、無情な顔をしていました。
 もうその時セエラには、あのお誕生日の宴会は夢としか――あるいはずっと昔生きていた、誰か別の少女の生涯に起ったこととしか、思えませんでした。
 その間に教室や、先生の居間はすっかりいつものように片付けられてしまいました。先生はじめ生徒達は、 平常 ふだん の着物に着かえてしまいました。少女達は教室のそこここにかたまって、ひそひそと囁き合ったり、昂奮して話し合ったりしていました。
 ミンチン女史が妹に、セエラを呼んで来いといった時、アメリア嬢はこういいました。
「お姉さん、あの子はずいぶん変ってる子ね。この前クルウ大尉が印度へ発った時もそうでしたが、今度も私が事の次第をいってきかすと、あの子はただ黙って、私の顔を見つめているんですの。あの子の眼は見る見る大きくなって、そして顔色は真蒼になって来ました。そうしてちょっとの間立ったままでしたが、わなわなと顎がふるえ出したと思ったら、ふいにくるりとうしろを向いて、部屋を飛び出して行ってしまいました。ほかの子達がかえって泣き出しましたけれども、セエラは子供達の泣声になどは耳も さない風でした。あの子はまるで生きている以上、こんなことになるのがあたりまえだ、というような顔をしていました。あの子が何にもいってくれないので、私は変な気持になって困りました。誰だって、ふいにあんなことをいわれれば、何とかいわずにはいられないはずですものね。」
 セエラが、二階の部屋の中で何をしていたか、セエラ以外には誰にもわかりませんでした。セエラ自身も、その時はほとんど夢中でした。ただ彼女は、しきりに部屋の中を歩き廻って、「お父様はおなくなりになったのよ。お父様はおなくなりになったのよ。」と、自分にいい聞かしていたのは憶えています。そういう声も自分の声とは思えないほどでしたが、一度などは椅子の上からじっとセエラを見守っているエミリイの前に立って、狂わしそうにいいました。
「エミリイちゃん、お前わかって? パパがおなくなりになったの、わかって? パパはね、遠い遠い印度で、おなくなりになったのよ。」
 セエラが呼ばれてミンチン先生の部屋に来た時、彼女の顔は蒼白く、眼のまわりには黒いくまが出来ていました。セエラは、今まで苦しみぬいたこと、いまだに悲しくてならないことを、人に見破られるのがいやなので、きっと口をしめて我慢していました。さっきの薔薇色の 胡蝶 こちょう とは別人としか思われませんでした。
 セエラはマリエットの助けも借りず、古い天鵞絨の服を着て来たのでした。その服はもう小さすぎるので、短い裾の下に出たセエラの細い脚が、よけいに細く長く見えました。黒いリボンがなかったので、短い黒髪が蒼ざめた頬に乱れ落ち、頬の色をよけい蒼白く見せていました。セエラはエミリイをひしと抱いていました。エミリイも何か黒いものを着ていました。ミンチン先生はすぐそれを見とがめていいました。
「人形なんか、下にお置きなさい。何のために人形なんか持ってきたのです?」
「下に置くのなんかいやです。このお人形だけは私のものです。お父様が私に下すったのですから。」
 ミンチン先生はセエラに何かいわれると、いつも妙にいらいらして来るのでしたが、今もこうきっぱりいわれると、何か御しがたいような気がして、落ち着いていられませんでした。殊に今日は、 むご い人間らしくないことをしようとしているだけ、何か気がとがめるのでしょう。
「もうこれからは、人形どころのさわぎじゃアないのだよ。お前は働かなければ――悪い所を直して、役に立つような人間にならなければならないんだよ。」
 セエラは、大きな眼でミンチン女史を見つめたまま、一言も口をきかずに立っていました。
「もう、アメリアさんから聞いて知っているだろうが、何もかも、今まで通りだと思ったら大間違いだよ。」
「よくわかっています。」
「お前は乞食なんだ。身よりはないし、世話をしてくれる人なんて、一人もないのだからね。」
 セエラはちょっと痩せた小さい顔を しか めました。が、やはり何ともいいませんでした。
「何をそうじろじろ見てるんだよ。乞食になったってことがわからないほど、莫迦でもあるまいにね。もう一度いってきかしてあげようか。お前はみなし子で、私がお慈悲で置いてやらない限りは、誰もかまってくれるものはないのだよ。」
「わかってます。」
 セエラは低い声でいいました。何か喉に詰っているものを呑みこもうとしているようでした。ミンチン先生は、すぐそこに置きすてられてあったお誕生祝いのお人形を指していいました。
「その人形も――その莫迦々々しい人形のお金を払ったのも、私なんだ。」
 セエラは椅子の方に顔を向けて、「最後の人形、最後の人形」と、思わず口の中でいいました。
「最後の人形だって? まったくだよ、この人形は私のものだ。お前の持ってるものは、何もかも私のものなのだよ。」
「じゃア、どうか、そのお人形を持ってらしって下さい。私、そんなもの要りません。」
 セエラが喚いたり怯えたりしたら、ミンチン女史はセエラをもう少しは いたわ ってやったかもしれません。女史は人を支配して、自分の力を試してみるのが愉快だったのでした。が、セエラの凛とした顔を見、 ほこり のある声を聞くと、自分の力が空しく消えて行ったような気がして、口惜しくなるのでした。
「勿体ぶった様子なんかおしでないよ。もう、お前は 宮様 プリンセス じゃアないのだからね。お前は、もう、ベッキイと同じことさ。自分で働いて、自分の口すぎをしなければならないのだよ。」
 意外にも、セエラの眼には、ふと輝きが――救いのかげが浮んで来ました。
「働かして下さいますの? 働けさえすりゃア、何もそう悲しかアありませんわ。何をさして下さいますの?」
「何でも、いいつけられたことをするんだよ。お前はよく気のつく子だから、役に立つように心がけるのなら、ここに置いてあげてもいいと思うのだよ。フランス語もよく出来るのだから、小さい人達のおさらいもしてあげられるだろう。」
「おさらい、させて下さいます? 私、フランス語なら教えられると思いますわ。小さい人達は私を好いて下さるし、私も小さい人達が好きですから。」
「人が好いてくれるなんて、莫迦なことをおいいでない。小さい人達のおさらいをするほか、お前はお使いに行ったり、お台所の手伝いをしたりしなければならないのだよ。私の気に入らないことでもあったら、すぐ逐い出してしまうから、そのつもりでおいで。じゃア、向うへおいで。」
 そういわれても、セエラはまだちょっとの間、ミンチン先生を見つめていました。幼い心の中で、セエラはいろいろのことを考えていたのでした。やっと立ち去ろうとしますと、
「お待ち!」と先生はいいました。「私に、ありがとうございます、という気はないのかい?」
「何のために?」
「私の親切に対してさ。お前に 家庭 ホーム を恵んでやる親切に対してさ。」
 セエラは小さい胸を波立てながら、二三歩先生の方に進み出ました。
「先生は、御親切じゃアありません。それに、ここは 家庭 ホーム でも何でもありません。」
 いいすててセエラは、駈け出しました。ミンチン先生はそれを止める術もなく、 いか りのあまり石のように立って、セエラを見送るばかりでした。
 セエラは、落ち着いて梯子を登って行きましたが、息はきれるばかりでした。彼女はエミリイをしかと脇に抱きしめていました。
「この子に口がきけたら――物がいえさえしたら、どんなにいいだろう。」
 セエラは自分の部屋に行き、虎の皮の上に寝ころんで、炉の火に見入りながら、考えられるだけいろいろのことを考えてみようと思っていました。が、まだ彼女が二階へ登りきらないうちに、アメリア嬢がセエラの部屋から出て来ました。嬢はぴたりと戸をしめ、戸の前に立ち塞って、気づかわしげな顔をしました。嬢は、姉にいいつけられたことをするのが、うしろめたくてならないのでした。
「もう、ここへ入ってはいけないのですよ。」
「入っちゃアいけないのですって?」
 セエラは一歩あとじさりしました。アメリア嬢は少し紅くなって、
「ここは、もうあなたのお部屋じゃアないのですよ。」といいました。
「じゃア、私のお部屋は、どこなの?」
「今晩からあなたは、屋根裏の、ベッキイのお隣の部屋に寝るんですよ。」
 セエラは、かねてベッキイから聞いていたので、その部屋がどこにあるか、よく知っていました。セエラはくるりとうしろを向いて、二つ続いた梯子段を登って行きました。二つ目の梯子は狭くて、きれぎれな 古絨毯 ふるじゅうたん が敷いてあるばかりでした。セエラはそこを登り登り、今までの――今は自分とも思えぬ昨日までの、あの幸福な少女の住んでいたところから、ずっと遠くの方へ去って行くような気がしました。小さすぎる古い服を着て、梯子を登って行く今の少女は、事実昨日までのセエラとは別人になっていました。
 屋根裏の戸を開けた時には、さすがに侘しい気がしました。が、セエラは中に入ると、戸に寄りかかって、そこらを見廻しました。
 まったく、これは別な世界です。天井は屋根の傾斜で片方が低くなっていますし、壁は粗末な白塗です。その白塗も、もう薄汚くなっていて、はげ落ちているところさえあります。錆のふいた 煖炉 だんろ 、それからこちこちな寝床。 階下 した の部屋には置けないほど使いふるした椅子、テエブル。明りとりの 天窓 ひきまど には、物憂い灰色の空がのぞいているばかりです。その下に、こわれた紅い足台があるのを見つけて、セエラはそこに腰を下しました。セエラは膝の上にエミリイを寝かし、両手で抱きながら、エミリイの上に自分の顔を伏せて、しばらくじっと坐っていました。
 ひかえめに戸を叩く音がして、戸の間に泣き濡れたベッキイの顔が現れました。ベッキイは、さっきから泣きづめに泣きながら、前掛であまり眼をこすったものですから、すっかり顔が変っていました。
「お、お、お嬢様、ちょっと、あの、ちょっと入っちゃアいけませんか。」
 セエラは、ベッキイに笑ってみせようとしましたが、どうしても笑うことが出来ませんでした。が、ベッキイが心から悲しんでいるのを見ると、セエラは急に子供らしい顔になり、手をさしのべて、しくしく泣き出しました。
「ベッキイちゃん、いつか私あなたに、私達は同じような娘同士だといったことがあるでしょう。ね、嘘じゃアなかったでしょう? 二人の間には、もう身分の違いなんてないんですもの。私は、 宮様 プリンセス でもなんでもなくなってしまったのよ。」
 ベッキイは駈けよって、セエラの手をとり、自分の胸におしあてました。ベッキイは 欷歔 すすりな きながら、セエラの かたわら に跪いていいました。
「お嬢様は、どんなことが起ったって、やっぱり 宮様 プリンセス よ。何が起ったって、どうしたって、 宮様 プリンセス 以外のものにはなるもんですか。」



屋根裏にて

 セエラはいつまでも、初めて屋根裏に寝た晩のことを忘れることは出来ませんでした。夜もすがらセエラは、子供にしては深すぎる、狂わしい悲しみにひたされていました。が、セエラはそのことを誰にも話しませんでした。また話したとて、誰にも解る悲しみではなかったでしょう。セエラは、寝られぬ夜の闇の中で、ともすると、寝慣れぬ堅い寝床や、見慣れぬあたりのものに心を わずら わされました。が、それはかえって彼女の気をまぎらしてくれたようなものでした。そんなまぎれがなかったら、セエラは悲しみのあまりどうなったかわからなかったでしょう。
「パパは、おなくなりになったのだ。パパは、おなくなりになったのだ。」
 寝床に入ってしばらくの間は、そのことばかり考えていました。寝床が堅いと気のついたのは、寝てからずいぶんたった後のことでした。寝返りを打っているうちに、そこらがひどく暗いのに気がつきました。それから、風が屋根の上で、何か大声に泣き悲しんでいるようなのに気がつきました。更に気味の悪いのは、壁の中や、戸棚のうしろから、きいきい、がりがりという音が聞こえて来たことでした。セエラは、いつかベッキイから話を聞いていましたので、すぐ鼠のいたずらだなと気づきました。セエラは一二度、鋭い爪が床を掻いて走る音を聞いて、思わず床の上に飛び起きました。それから、頭から夜具をかぶって横になりました。
 セエラの生活は、その日からがらりと変りました。マリエットは翌朝暇を出されました。昨日までセエラのいた部屋はすっかり片付けられ、新入生のためのあたりまえの寝室にされました。
 朝食堂へ出て見ると、ラヴィニアが、昨日までセエラの坐っていたところに坐っていました。ミンチン先生は冷かにセエラにいいました。
「セエラ、お前は、お前の用をすぐ始めるんだよ。小さい方達と、小さい方のテエブルに坐って、皆さんがお行儀よく食べるように、見てあげるんだよ。これからもっと早く出て来なきゃアいけないよ。ほら、ロッティはもうお茶をこぼしてるじゃアないか。」
 セエラの仕事は、この様にして始まりました。来る日ごとに用事はふえるばかりでした。フランス語を見てあげるのは、一番楽な仕事でしたが、そのほかお天気の悪い時でもかまわずお使いにやられたり、皆の 残為 しのこ した用事をいいつけられたりしました。料理番や、女中までが、ミンチン女史の真似をして、今まで永いことちやほやされていたこの娘っ子を、いい気持にこき使うのでした。
 セエラは、初めの一二ヶ月の間は、素直に働いていれば、こき使う人達の心も、そのうちには やわら ぐだろうと思っていました。自分は、お慈悲を受けているのではなく、食べるために働いているのだということも、そのうちには解ってくれるだろう、と思っていました。が、やがて彼女も、皆が心を柔げてくれるどころか、素直にすればつけあがるだけだということを、悟らなければなりませんでした。
 セエラが、もう少し大人らしくなっていたら、ミンチン女史も、セエラを大きい子達のフランス語の先生にしたでしょうが、何分セエラはまだ子供々々していますので、大きくなるまで、女中代りに使った方が得だと思ったのでした。セエラなら、むずかしい用事や、こみいった 伝言 ことづて なども、安心して頼むことが出来ました。お金を払いにやっても間違いはないし、ちょっとしたお掃除も、器用にやってのけるのでした。
 セエラは、今はもう勉強どころではありませんでした。楽しいことは、何も教わりませんでした。忙しい一日がすんでから、古い本を抱えて、人気のない教室へ行って、一人夜学を続けるばかりでした。
「気をつけないと、習ったことまで忘れてしまいそうだわ。これで、何にも知らないとすれば、ベッキイと選ぶところがなくなるわけだわ。でも、私忘れることなんて出来そうもないわ。歴史の勉強なんか、殊にやめられないわ。ヘンリイ八世に六人の妃があったことなんか、忘れられるもんですか。」
 セエラの身の上が、こういうように変ると同時に、お友達との関係も妙なものになって来ました。今までは、何か皇族ででもあるかのように尊ばれていたのに、今はもう皆の仲間入りもさせてくれなそうでした。セエラが一日中忙しいので、少女達と話す暇がないのも事実でしたが、同時にミンチン女史が、セエラを生徒達からひきはなそうとしている事実も、セエラは見のがすわけにはいきませんでした。
「あの子が、ダイヤモンド鉱山を持っていたなんて。」と、ラヴィニアはひやかしました。「ほんとうにお笑い草ってな顔してるじゃアないの。あの子は、ますます変人になって来たわね。今までだって、あの子好きじゃアなかったけど、この頃のような変な眼付で黙って見ていられると、たまらなくなるわ。まるで人を探るような眼をしてさ。」
 それを聞くと、セエラはすぐやり返しました。
「その通りでございますよ。まったく私は、探るために人を見るのですよ。いろいろのことを嗅ぎつけて、そして、あとでそのことを考えて見るんですよ。」
 そういったわけは、ラヴィニアのすることを見張っていたおかげで、いやな目に逢うことを避けることが出来たからでした。ラヴィニアはいつも意地悪で、この間まで学校の誇とされていたセエラを いじ めるのは、殊にいい気味だと思っていたのでした。
 セエラは、自分で人に意地悪をしたり、人のすることの邪魔をしたりすることは、少しもありませんでした。セエラは、ただ奴隷のように働きました。だんだん身なりがみすぼらしく、みなし子らしくなって来ますと、食事も台所でとるようにいわれました。彼女は誰からも見離されたもののように扱われました。彼女の心は我強く、同時に痛みやすくなって来ました。が、セエラはどんなに辛いことも、決して口に出していったことはありませんでした。
「軍人は愚痴なんかこぼさない。」セエラは歯をくいしばりながらいうのでした。「私だって、愚痴なんかいうものか。これは私、戦争の一つだっていうつもりなのだから。」
 そうはいうものの、彼女を慰めてくれる三人の友がなかったら、セエラの心は寂しさのあまり破れたかもしれなかったでしょう。
 その友の一人は、あのベッキイでした。初めて屋根裏に寝た晩も、壁一つ越した向うには、自分のような少女がいるのだと思うと、セエラは何となしに慰められるような気がしました。その慰めの気持は、夜ごとに強くなって来るのでした。日の うち は二人とも用が多くて、言葉を交す折はほとんどありませんでした。立ち止ってちょっと話そうとすると、すぐ怠けるとか、暇をつぶすとか思われるので、それも出来ないのでした。初めての朝、ベッキイはセエラに囁きました。
「私が丁寧なことを言わないでも、気にしないで下さいね。そんなことをいってると、きっと誰かに叱られるからね、私、心の中では『どうぞ』だの、『もったいない』だの、『御免なさい』だのといってるつもりだけど、口に出すと暇がかかるからね。」
 しかし、ベッキイは、夜の明ける前に、きっとセエラの部屋にこっそりと入ってきて、ボタンをはめたり、その他いろいろ手伝ってくれるのでした。夜がくると、ベッキイはまたそっと戸を叩いて、何かセエラの用をしに来てくれるのでした。
 三人のうちの第二は、アアミンガアドでした。アアミンガアドがセエラを慰めに来るまでには、いろいろ思いがけないいきさつがありました。
 セエラの心が、やっと少し新しい生活になじんで来ると、セエラはしばらくアアミンガアドのことを忘れていたのに気づきました。二人はいつも仲よくしていましたが、セエラは自分の方がずっと年上のような気持でいました。アアミンガアドは人なつっこい子でしたが、同時にまた頭の鈍いことも争われませんでした。彼女は、ただひたむきにセエラに縋りついていました。おさらいをしてもらったり、お話をせがんだり――が、アアミンガアド自身には、別に話すこともないという風でした。つまり彼女は、どんな事があっても忘れられない、という たち の友達ではありませんでした。だからセエラも、アアミンガアドのことは自然忘れていたのでした。
 それに、アアミンガアドは急に呼ばれて、二三週間 自宅 うち に帰っていましたので、忘れられるのがあたりまえだったのです。彼女が学校へ帰って来た時には、セエラの姿は見えませんでした。二三日目にやっと見付けた時には、セエラは両手に一杯 繕物 つくろいもの を持っていました。セエラはもう着物の繕い方まで教わっていたのでした。セエラは蒼ざめて、人のちがったような顔をしていました。小さくなった、おかしな着物を着て、黒い細い脚をにょきりと出していました。
「まア、セエラさん、あなただったの!」
「ええ。」
 セエラは顔を紅らめました。
 セエラは衣類を うずたか く重ねて持ち、落ちないように顎で上を押えていました。セエラにまともに見つめられると、アアミンガアドはよけいどうしていいか判らなくなりました。セエラは様子が変ったと同時に、何かまるで知らない女の子になってしまったのではないか?――アアミンガアドにはそうも思えるのでした。
「まア、あなた、どう? お丈夫?」
「わからないわ。あなた、いかが?」
「私は――私は、おかげ様で、丈夫よ。」アアミンガアドは羞しくてわけがわからなくなって来ました。で、急に、何かもっと友達らしいことをいわなければならないと思いました。「あなた――あなた、あの、ほんとにお 不幸 ふしあわせ なの?」
 その時のセエラのしうちは、よくありませんでした。セエラの きずつ いた心臓は、ちょうど たか ぶっている時でしたので、こんな物のいいようも知らない人からは、早くのがれた方がいいと思いました。
「じゃア、あなたはどう思うの? 私が しあわせ だとお思いになるの?」
 セエラはそういい残して、さっさと去って行ってしまいました。
 その後、時がたつにつれて、セエラは、アアミンガアドを責むべきではなかったと思うようになりました。ただあの時は、自分の不幸のため、何もかも忘れてしまっていたので、アアミンガアドの心ない言葉に腹が立ってならなかったのでした。それに、落ち着いて考えて見ると、アアミンガアドはいつも気のきかない子で、心を籠めて何かしようとすると、よけいやりそこなうのが常だったのでした。
 それから五六週間の間、二人は何かに さえぎ られていて、近よることが出来ませんでした。ふと行きあったりすると、セエラは わき を向いてしまいますし、アアミンガアドはアアミンガアドで、妙にかたくなってしまって、言葉をかけることも出来ませんでした。時には、首だけ下げて 挨拶 あいさつ することもありましたが、時とすると、また目礼さえせずに過ぎることもありました。
「あの子が、私と口をききたくないのなら、私はあの子になるべく会わないようにしよう。ミンチン先生は会わせまいとしているんだから、避けるのは造作ないわけだわ。」
 で、自然二人はほとんど顔も会わさないようになりました。アアミンガアドは、ますます勉強が出来なくなりました。彼女はいつも悲しそうで、そのくせそわそわしていました。彼女はいつも窓のそばに蹲まり、黙って外を見ていました。ある時、そこへ通りかかったジェッシイは、立ち止って、怪訝そうに訊ねました。
「アアミンガアドさん、何で泣いてるの?」
「泣いてなんて、いやしないわ。」
「泣いてるわよ。大粒の涙が、そら、 鼻柱 はなばしら をつたって、鼻の先から落ちたじゃアないの。そら、また。」
「そう。私なさけないの――でも、かまって下さらない方がいいのよ。」
 アアミンガアドは丸々とした背を向けて、 手巾 ハンケチ おもて をかくしました。
 その晩、セエラはいつもよりも遅く、屋根裏へ登って行きました。と、自分の部屋の扉の下から、ちらと光の洩れているのを見付けて、 吃驚 びっくり しました。
「私のほか、誰もあそこへ行くはずはないけど、でも、誰かが 蝋燭 ろうそく をつけたとみえる。」
 誰かが火をともしたのにちがいありません。しかも、その光は、セエラがいつも使う台所用の燭台のではなく、生徒が寝室につける燭台の火に違いないのです。その誰かは、 寝衣 ねまき のまま紅いショオルにくるまって、 くず れた足台の上に坐っていました。
「まア、アアミンガアドさん!」セエラは怯えるほど吃驚しました。「あなた、大変なことになってよ。」
 アアミンガアドはよろよろと立ち上りました。彼女は大きすぎる寝室用のスリッパをひっかけて、すり足にセエラの方へ歩いて来ました。眼も、鼻も、赤く泣き腫らしていました。
「見付かれば、大変なことになるのはわかっているわ。でも、私、叱られたってかまわないわ。ちっともかまわないわ。それよりもセエラさん、お願いだから聞かしてちょうだい。ほんとうにどうなすったの? どうして、私が嫌いになったの?」
 アアミンガアドの声を聞くと、セエラの喉にはまた、いつものかたまりがこみ上げて来ました。アアミンガアドの声は、いつか仲よしになってちょうだいといった時の通り、人なつっこく、真率でした。この数週間の間、よそよそしくするつもりなんか、ちっともなかったのに、というような響でした。
「私、今でも、あなたが大好きなのよ。」と、セエラはいいました。「私ね――もう何もかも、前とは違ってしまったでしょう。だから、あなたも、前とは変っちまったんだろうと思ったの。」
 アアミンガアドは、泣き濡れた眼を見張りました。
「あら、変ったのはあなたの方よ。あなたは、私に物をいいかけても下さらなかったじゃアないの。私、どうしていいか判らなかったの。私がうちへ行って来てから、変ったのはあなたよ。」
 セエラは思い返して、自分が悪かったのだと知りました。
「そうよ、私変ったわ。あなたの考えてるような変り方ではないけど。ミンチン先生は皆さんとお話しちゃアいけないって仰しゃるのよ。皆さんだって、私と話すのはおいやらしいの。だから、私あなたもきっと、おいやなんだろうと思って、なるべくあなたを避けていたのよ。」
「まア、セエラさん。」
 アアミンガアドは、セエラを咎めるように泣きじゃくりました。二人は眼を見合わせて、そして、お互に抱きつきました。セエラはしばらくの間、小さい黒髪の頭を、赤いショオルで おお われたアアミンガアドの肩にじっと乗せていました。アアミンガアドが、身を引こうとすると、セエラはひどく寂しい気がしました。
 それから、二人は床に坐りました。セエラは手で膝をかかえ、アアミンガアドはショオルにからだを包んで、
「私は、もうとてもたまらなかったのよ。セエラさんは、私なしでも暮せるでしょうけど、私は、セエラさんなしにはいられないのよ。私は生きてる気もしなかったの。今夜も、夜具の中で泣いていたら、ふと急に、ここへ登ってきて、あなたにあやまって、もう一度お友達になっていただこうって気になったの。」
「あなたは、私なんかよりよっぽどいい方なのね。私は我が強いから、仲直りしようなんて気にはなかなかなれないのよ。ほら、いつかもいったように、今度のように辛い目にあって見ると、私はいい子じゃアないということが、あばかれてしまったでしょう。こんなことになりはしまいかと、私気にしていたのよ。」セエラは考え深そうに額に皺を寄せて、「ことによると、それを私に解らせるため、辛い目にあわせられたのかもしれないわ。」
「そんな目にあったって、ちっともありがたくはないと思うわ。」
「私だって、ほんとうはありがたいと思ってるわけじゃアないのよ。でも、私達にはわからないところに、よいものがないとも限らないでしょう。ミンチン先生にしたって――。」
 セエラは疑わしげに――「いいところが、あるのかもしれないわ。」
 アアミンガアドは、 怖々 こわごわ そこらを見廻して、セエラに訊ねました。
「あなた、こんなところに住めると思うの?」
「こんな所でも、こんなじゃアないつもりになれば、住めると思ってよ。でなければ、これは、あるお話の中の場面だと思っていればね。」
 セエラは静かに語りました。うまい具合に空想がまた働き出して来ました。ふいに辛い目にあってからこのかた、セエラは一度もまだ、空想によって慰められたことがなかったのでした。
「もっとひどい所に住んでた人もあるのよ。モント・クリスト伯爵はシャトオ・ディフの牢屋に押しこめられていたでしょう。それから、バスティユに ほう りこまれた人達だってあるでしょう。」
 アアミンガアドは口の中で、
「バスティユ。」といいました。いつかセエラが芝居がかりで話してくれた事がありましたので、アアミンガアドもフランス革命の話だけは覚えこんでいました。
 セエラの眼は、いつものように輝いて来ました。
つもりになるのは、バスティユがいいわ。私はバスティユの囚人なの。私は、もう幾年も幾年もここに押しこめられていたの。世の中の人達は皆、私のことなんか忘れてしまっているの。ミンチン先生は監守で、それからベッキイは――」ふと新しい光が、セエラの眼に加わりました。
「ベッキイは、お隣の監房にいる囚人なの。」
 セエラは、昔の通りな顔になって、アアミンガアドの方を向きました。
「私、そのつもりになるわ。つもりになってると、どんなにまぎれていいかしれないわ。」
 アアミンガアドは、たちまち夢中になりました。
「そしたら、私にもつもりのお話をみんなしてちょうだいね! 見付けられそうもない晩には、いつでもここに来ていいでしょう? そしたら、あなたが昼間のうちに作っといたお話を聞かしてちょうだいね。そんなことをしていると、きっと今までよりも、もっと仲よしになったような気がすることよ。」
「いいわ。何か事が起ると、人の心もわかるものね。私の 不幸 ふしあわせ は、あなたがほんとうにいい方だってことを教えてくれたのね。」


 


メルチセデク

 セエラを慰めてくれた 三人組 トリオ の第三人目はロッティでした。ロッティはまだねんねエでしたので、不幸とはどんなことだかも、よく解りませんでした。で、若い 養母 おかあ さんの様子がすっかり変ってしまったのを見ると、途方にくれるばかりでした。彼女は、セエラの身の上に何か起ったということは耳にしましたが、だからといって、どうしてあんな古い服を着ているのだか、なぜ教室でも自分の勉強はせず、他人の勉強ばかり見てあげているのだか、合点が行きませんでした。小さい子供達は、あのエミリイのいた美しい部屋に、セエラはもういないのだということを、しきりに小声で話し合っていました。それにセエラに何か問いかけても、ろくに返事もしません。
 セエラが、初めて小さい子達のフランス語を見てやった朝、ロッティは、そっとセエラに尋ねました。
「セエラちゃん、あなた、ほんとにもうお金持じゃアないの? あなたは、乞食みたいに貧乏なの? 乞食みたいになんかなっちゃアいや。」
 ロッティは今にも泣き出しそうでしたので、セエラは 周章 あわて てロッティをなだめにかかりました。
「乞食には、お うち なんかないけど、私には、お部屋があるのよ。」
「どこにあるの? 私、行ってみたいわ。」
「おしゃべりしちゃア駄目よ。ミンチン先生が睨めてるじゃアないの。あなたにおしゃべりさせたといって、いまに私が叱られるわ。」
 が、ロッティは、一度いい出したら、なかなか諦めない性質の子でした。で、セエラがいる所を教えてくれないなら、何か他の方法で、セエラのいる所をつきとめようと思いました。ロッティは大きい子達のおしゃべりに耳をすましているうち、ある時、ふとした言葉尻から、セエラが屋根裏にいるのだということを知りました。その日の暮近く、ロッティは一人、今まであるとも気づかなかった階段を登って行きました。二つ並んでいる戸の一つを開けると、セエラは古ぼけたテエブルの上に立って、天窓から外を見ておりました。
「セエラちゃん、セエラ母ちゃん。」
 ロッティは 呆気 あっけ にとられた形でした。室内があまりにみすぼらしく、世の中からあまりかけ離れた所のように思えたからでした。
 セエラは振り向くと、これも呆気にとられた形でした。これから、どうなることだろう。もしロッティが泣き出しでもしたら――泣声がひょっと誰かの耳にでも入ったら、二人とももうおしまいだ。――セエラはテエブルから飛び下りて、ロッティの方へ走り寄りました。
「泣いたり、騒いだりしちゃア駄目よ。そうすると、私が叱られるからね。でなくても、私一日中叱られ通しなんですもの。ね、この部屋は、そんなにひどくもないでしょう?」
「ひどくない?」
 ロッティは唇を噛みながら、部屋の中を見まわしました。彼女は甘やかされてはいましたが、セエラが非常に好きなので、この 養母 おかあ さんのためになら、どんな我慢でもしようと思っていました。すると、セエラの住んでいる所なら、どんな所でもよくなるような気がして来ました。
「ひどいなんてことないわ。セエラちゃん。」
 セエラはロッティを抱きしめて、無理にも笑おうとしました。ロッティのむっちりした身体の温かさを感じると、セエラは何か慰められるような気がしました。その日は、セエラには殊に辛い日でしたので、ロッティの入ってきた時には、眼を紅くして、窓の外を見つめていたのでした。
「ここからはね、階下では見えないものが、たくさん見えるのよ。」
「どんなものが見えるの?」
「煙突や、雀や、それからよその屋根裏の窓や。――窓からよく人の顔がひょいと出て来るのよ。すると、あれはどこのお うち の人かしらと思うでしょう。それに、何だか高い所にいるような気がするでしょう――まるで、どこか違った世界に来たような。」
「私にも見せて。抱いてみせて!」
 セエラはロッティを抱き上げ、一緒に古いテエブルの上に立ちました。二人は天井の明りとりの窓から頭を出して、そこらを見廻しました。
 屋根裏の窓から外を見た経験のない方には、二人の眼に何が映ったか、想像もつかないでしょう。 石盤 スレート 葺の屋根が、左右の両樋の方へなだれ落ち、雀等が、そこらを何の怖れもなさそうに飛び歩きながら、 さえず っていました。そのうちの二羽は、すぐそこの煙突の先にとまって、大喧嘩をした末、一羽はそこから逐いたてられてしまいました。 隣家 となり は空家なので、屋根裏部屋の窓も閉っていました。
「あそこにも誰かが住んでいてくれるといい、と私思うのよ。」セエラはいいました。「近いから、あそこに娘さんでも住んでるとしたら、窓越しにお話も出来るわ。落ちる心配さえなければ、屋根から屋根へ行き来も出来ると思うの。」
 空は、往来から見上げた時より、ずっと近くに見えるので、ロッティは 恍惚 うっとり となってしまいました。下界に起っているいろいろの事は、煙突にかこまれてこの窓からは、まるで嘘のように思われました。ミンチン先生も、アメリア嬢も、教室も、ほんとうにあるのかないのか、判らなくなって来ます。広場の車馬の響さえ、何か別の世界の物音のように聞えて来るのでした。ロッティは思わずセエラの腕にしがみつきました。
「セエラちゃん、私このお部屋好き――大好き。私達の部屋よりよっぽどいいわ。」
「あら、雀が来てよ。パン屑でもあれば、やりたいのだけど。」
「私、持っててよ。」
 雀は、屋根裏にお友達がいようとは思わなかったので、パン屑を投げられると、驚いて一つ向うの煙突の先へ飛び退きましたが、セエラがちゅっちゅっと雀の通りに口を鳴らしますと、雀はせっかくの御馳走に脅かされたのだと気づいたらしく、首を傾げてパン屑を見下しました。それまで、おとなしくしていたロッティは、 こら えきれなくなりました。
「来るでしょうか?」
「来そうな眼をしてるわ。来ようか、来まいか、と迷っているのよ。あら、来そうだわ。ほら、来たわ。」
 雀は、しばらくためらって後、大きなかけらを素早く つま んで、煙突の向うへ飛び去りました。が、じき一羽の友を伴れて、戻って来ました。友はまた友を伴れて来ました。ロッティ[#「ロッティ」は底本では「ロィテッ」]はうれしさの余り、初め部屋のみすぼらしさに胸を打たれたことなど忘れてしまいました。セエラ自身も、ロッティによって、今まで気づかなかったここの美しさを知りました。
「この部屋は、小さくて高いところにあるから、鳥の巣といってもいいわね。天井がかしいでいるのも面白いでしょう。こっちの方は低くて、頭がつかえそうね。私夜が明けると、床の上に坐って、窓から空を見上げるのよ。すると、窓はまるで四角な明るみの 継布 つぎ みたいなのよ。お天気の日には、小さな薔薇色の雲がふわふわ浮いてて、手を伸したら届きそうなの。雨の日には雨だれの音が、何かいい事を話してくれてるようよ。星の夜は、継布の中にいくつの星が光ってるか、数えて見るの。あれっぱかしの所にずいぶんたくさんあってよ。それから、あの小さな炉にしたって、磨いて火を入れれば、素敵じゃないの。ね、そう考えてみると、ここだってずいぶんいい部屋でしょう。」
 そういわれると、ロッティも、セエラのいう通りのものが見えるような気がしました。セエラが描くものなら、何でもほんとうだと思いこむロッティでした。セエラは、なおつづけていいました。
「床には厚い、柔かい、青の印度絨毯を敷くとしましょう。それから、あそこの隅には、クッションを一杯のせた長椅子を置くとしましょう。椅子から手を伸すと取れるところに、本箱を置くの。炉の前には毛皮を敷くの。壁は壁掛と額とで隠してしまうの。小さいのでなきゃア似合わないけど、小さくても綺麗なのがあるわ。薔薇色の置ラムプが欲しいわね。真中にはお茶道具をのせたテエブル。丸い銅の茶釜が、 炉棚 ホップ の上でちんちん 煮立 にえた ってるの。寝台もすっかり変えなければ。それから、小雀達は窓に来て入ってもようござんすかというように、慣らしてしまうの。」
「セエラちゃん、私もここに来たいわ。」
 ロッティを送り出してしまうと、セエラには室内の惨めさが、前よりひどく思われました。セエラはしばらく足台の上に坐って、両手で顔をおおうていました。
「寂しい所だわ。世の中で一番寂しい所のように思えることさえあるわ。」
 ふと、セエラはことという微かな音を聞きました。見ると、大きな鼠が一匹、 後肢 あとあし で立って、物珍しげに鼻をうごめかしていました。ロッティの持ってきたパン屑が、そこらに散らかっていましたので、鼠はその匂いに惹かれて出て来たもののようでした。
 鼠はまるで、灰色の 頬鬚 ほおひげ をはやした 侏儒 こびと のようでした。何か問うようにセエラをみつめているのでした。眼付が妙におどおどしているので、セエラはふとこんなことを考えました。
「鼠はきっと辛いに違いないわ、皆に嫌がられて。私だって、皆に嫌がられて、罠をかけられたりしたらたまらないわ、雀は、鼠とは大違いだわ。でも鼠は鼠になりたくてなったわけじゃアないのね。雀の方に生れたくはないかい? なんて聞いてくれる人があるわけじゃアないから。」
 鼠は、初めはセエラを怖がっているようでしたが、雀のような心を持っているとみえ、さっきの雀のように、だんだんパン屑の方に寄って来ました。
「おいで。私は罠じゃアないから。食べてもいいのだよ、可哀そうに。バスティユの囚人達は、鼠と仲よしになったっていうから、私もお前と仲よくなろうかしら。」
 どうして動物に物が解るのか。その訳は解りませんが、しかし、動物に物の解るのは事実です。ことによると世の中には言葉でない言葉があって、何にでも、それが通じるのかもしれません。ことによると、また世の中の事物には、何にでも、目に見えぬ魂があって、声も立てず、話し合うことが出来るのかもしれません。それはとにかく、鼠はセエラがこういった瞬間、もう安心だと思ったようでした。彼はそろそろとパン屑の方に行き、それを食べはじめました。彼は食べながら、さっきの雀のように、時々セエラの方を見て、どうもすみません、というような眼をしました。セエラは、それにひどく心を動かされました。
 それから一週間ほどたったある晩、アアミンガアドがそっと屋根裏へ忍び登って、戸を叩きますと、室内は妙にひっそりしていました。セエラは寝てしまったのかしら、と いぶか っているところへ、ふいにセエラの低い笑い声が聞えて来ました。
「ほら、メルチセデク、それを持ってお帰り。おかみさんのところへお帰り。」
 そういうと、すぐセエラは戸を開きました。
「セエラさん、誰? 誰と話してたの?」
「お話してもいいけど、あなたびっくりして、声を立てたりしちゃア、駄目よ。」
 アアミンガアドは、その場で あぶな く声を立てるところでした。見渡したところ、室内には誰もいないので、セエラはお ばけ と話していたのかと、アアミンガアドは思ったのでした。
「何か、怖いお話なの?」
「怖がる人もあるわ。私だって初めは怖かったけど、もう何でもないわ。」
「お化?」
「いやアだ。――鼠よ。」
 アアミンガアドは一飛に飛んで、 寝台 ベット の真中に坐りました。声は立てませんでしたが、怖さのあまり息をはずませていました。
「鼠? 鼠ですって?」
「慣れてるから怖かアないのよ。私が呼べば出てくるくらいよ。あなたさえ怖くなければ、呼んでみるわ。」
 アアミンガアドは、初めは怯えて 寝台 ベット の上で足を縮めてばかりいましたが、セエラが落ち着いた顔で、メルチセデクが初めて出て来た時の話をするのを聞いていると、だんだん鼠を見てみたくなりました。彼女は 寝台 ベット の端にのり出して来て、セエラが壁の腰板にある抜穴のそばに跪くのをじっと見ていました。
「そ、その鼠、ふいに駈け出して来て、 寝台 ベット の上に上って来たりしやアしなくって?」
「大丈夫。私達と同じようにお行儀がいいのよ。まるで人間のようだわ。さ、見てらっしゃい。」
 セエラは聞えるか聞えないほどに、口笛を吹きました。何か呪文を とな えるように、四五たび吹きました。すると、それを聞きつけて、灰色の頬鬚を生やした鼠が、眼をきらきらさせて、穴から顔を出しました。セエラがパン屑をやると、メルチセデクは静かに出て来て、それを食べました。彼は少し大きな屑を持って、 小忙 こぜわ しげに帰って行きました。
「ね、あれは、おかみさんや子供達に持ってってやるのよ。えらいでしょう。自分は小さいのだけ食べるのよ。帰って行くと、 うち のもの達が よろこ んで、ちゅうちゅう大騒ぎよ。ちゅうちゅうにも三通りあるのよ、子供のちゅうちゅうと、メルチセデク夫人のちゅうちゅうと、それからメルチセデク君のちゅうちゅうと。」
 アアミンガアドは笑い出しました。
「セエラさんは変ってるわね。でも、いい方ね。」
「私変っていてよ。私はまたいい人になりたいと思ってるのよ。」セエラは小さな手で顔をこすりました。そして、やさしい少し悩ましい顔になりました。「パパもよく私を笑ったものだわ。でも、私笑われてうれしかったわ。私は変人だけど、私のいう出まかせは面白いと、パパは仰しゃってたわ。私、お話を作らずにいられないのよ。お話を作らずには生きていられないのよ。」セエラはちょっと口を つぐ んで、部屋の中を見廻しました。「少くとも、こんなところに住んでいられるはずはないわ。」
 アアミンガアドは、だんだん惹き入れられて来ました。
「あなたが話すと、何でも、皆ほんとのように思えてくるわ。あなたは、メルチセデクのことを人間のように仰しゃるでしょう。」
「人間なのよ。あれは私達と同じように、ひもじくなったり、 吃驚 びっくり したりするわ。それから結婚して、子供も持ってるわ。だから、あれだって私達のように、何も考えないとはいえないでしょう? あれの眼は、人間の眼のようだわ。だから私、あれに名をつけてやったのよ。」
 セエラは、いつものように膝を抱えて、床に坐っていました。
「それにあれは、私の友達としてつかわされたバスティユ鼠なのよ。」
「まだバスティユのつもりなの? いつでも、ここはバスティユだというつもりでいらっしゃるの?」
「たいていそのつもりよ。時とすると、どこか別の所のつもりにもなるけど、バスティユのつもりになら、すぐなれるわ。殊に寒い日などには。」
 ちょうどその時、アアミンガアドは 寝台 ベット から ころが り落ちそうになりました。向うから壁をコツ、コツと叩く音を聞いたからでした。
「なアに? あれ?」
 セエラは立ち上って、お芝居の口調で答えました。
「あれこそは、隣の監房にいる囚人じゃ。」
「ベッキイのこと?」
「そうよ。こうなの、コツ、コツ と二ツ叩くのは、『囚人よ、そこにいるのですか?』という意味なの。」
 セエラは返事でもするかのように、こちらから壁を三度叩きました。
「ね、これは、『はいおります。別に変りはありません。』という意味なの。」
 すると、ベッキイの方から、コツ、コツ、コツ、コツと、四つ叩く音がしました。
「あれは、こうなの、『では、 同胞 きょうだい よ、安らかに眠りましょう。お休みなさい。』」
 アアミンガアドは、うれしさのあまり眼を輝かせました。
「まるで、何かのお話みたいね。セエラさん。」
「みたいじゃアなくて、ほんとにお話なのよ。何だってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし――私も一つの物語よ。ミンチン先生だって、やっぱり物語だわ。」
 セエラはまた床に坐って話し出しました。アアミンガアドは、自分がいわば脱走囚のようなものだということなぞ忘れて、セエラの話に聞きとれていました。で、セエラは彼女に、このバスティユに夜通しいてはならないから、そっと梯子を降りて、自分の 寝室 ベット へ行くように、注意しなければなりませんでした。


印度の紳士

 が、アアミンガアドやロッテイは、そう毎晩屋根裏に忍んで行ったわけではありません。セエラはいつ行っても屋根裏にいるというわけではありませんし、抜け出たあとをアメリア嬢に見舞われる おそ れもないではありませんでした。で、セエラはたいてい一人ぼっちでした。彼女は屋根裏に一人いる時よりも、 階下 した で皆の間にいる時の方が、よけい一人ぼっちな気がしました。
 プリンセス・セエラとして馬車に乗り、女中を従えていた時には、よく通りがかりの人が振り返って見たものでしたが、今は、 使 つかい に出歩くセエラを、眼にとめるものもありませんでした。ぐんぐん 脊丈 せたけ は伸びて行くのに、古い着残りしかないので、形の整わないのはもとよりのことでした。セエラは時々商店の鏡に映る自分の姿をちらと見て、思わず吹き出すこともありましたが、時とすると顔を紅らめ、唇を噛んで、逃げ出さずにはいられませんでした。
 日が暮れて、窓の中に灯がともると、セエラは通りがかりに暖かそうな部屋を覗いて見るのが常でした。火の前に坐ったり、テエブルを囲んで話したりしている人達を見て、彼女は、よくその人達のことを想像してみるのでした。ミンチン女塾のある 一劃 いっかく には、五つか六つの家族が住んでいました。セエラはそれぞれの家族と、彼女の空想の中で親しくなっていました。その中で一番好きな家族を、セエラは『 大屋敷 おおやしき 』と呼んでいました。というわけは、その うち の人が大きいからではなく、その家には人がたくさんいるからでした。そのたくさんの人達は、大きいどころか、子供の方が多いくらいでした。肥った血色のいいお母さんと、肥った血色のいいお父さんと、これもまた肥った血色のいいお祖母さんと、八人の子供と、たくさんの召使と――これが『大屋敷』の人達でした。大屋敷のほんとうの名は、モントモレンシイというのでした。
 ある晩のことでした。非常に滑稽なことが持ち上りました。もっとも、考えようによっては、ちっとも滑稽なことではなかったかもしれません。
 セエラがモントモレンシイ家の前を通りかかると、子供達はどこかの夜会へでも出かけるらしく、ちょうど 舗道 ペーヴメント を横切って馬車の方へ歩いて いく ところでした。二人の女の子は、白いレエスの服に美しい 飾帯 サッシ を着けて、先に馬車へ乗りました。それにつづいて、五歳の少年ギイ・クラアレンスが乗りこもうとしていました。少年の頬は紅く、眼は青で、丸い可愛い頭は巻毛に被われていました。あまり美しいので、セエラは手籠を持っていることも、自分の 身装 みなり のみすぼらしいことも――何もかも忘れ、もう一目少年を見たい気持で一杯になりました。で、彼女は思わず立ち止って、少年を眼で追いました。
 ちょうど 降誕祭 こうたんさい の前でしたので、大屋敷の人達は貧しい子供達の話をいろいろ聞いていました。ギイ・クラアレンスは、その日そんな話を読んで涙ぐんだほどでした。で、彼はどうかしてそんな子を見付け、持合せの二十銭銀貨を施したいと思っていたところでした。彼はその二十銭で、貧しい子の一生が救えるものと思っていたのでした。彼が姉につづいて馬車へ乗ろうとした時にも、その銀貨はポケットの中にありました。乗ろうとしてクラアレンスは、ふとセエラが餓えたような眼で自分を見ているのに気づいたのでした。
 セエラが餓えたような眼をしていたのは、この少年に抱きついて 接吻 せっぷん したいからでした。が、少年は、セエラが一日中何にも食べなかったから、そんな眼をしているのだろうと思いました。で、彼はポケットに手を入れ、銀貨を持って、セエラの方へ歩いて行きました。
「可哀そうに。この二十銭を上げるよ。」
 セエラはびっくりしました。が、すぐ、今の自分は、昔自分が馬車に乗るのを見上げていた乞食娘にそっくりだと気づきました。セエラも、よくそうした娘達に銀貨を施してやったものでした。セエラは一度紅くなってから、また真蒼になりました。セエラはその なさけ のこもった銀貨に、手も出せないような気がしました。
「あら、たくさんでございます。わたくし、ほんとうにいただくわけはございません。」
 セエラの声は、そこらの乞食娘の声などとは似ても似つかぬものでしたし、ものごしも良家の令嬢そっくりでしたので、馬車の中の少女達はのり出して耳を傾けました。
 が、ギイ・クラアレンスは、せっかくの施しをやめるのがいやでしたので、銀貨をセエラの手の中に押しこみました。
「君、とってくれなくちゃア困るよ。これで、何か食べるものでも買いたまえ。二十銭あるんだからね。」
 少年は、非常に親切な顔をしていました。セエラがこの上拒みでもすると、ひどく気を落しそうなので、セエラは素直にお金を取らなければ悪いと思いました。で、ようよう我を折りはしましたが、頬は真赤に燃えました。
「ありがとう。坊ちゃんはほんとうに御親切な、可愛い方ね。」
 少年が悦ばしげに馬車へとびこむのを見ると、セエラもそこを去りました。息苦しいけれど、ほほえみたい気持でした。彼女の眼は霧の中できらきら光っていました。セエラは自分が妙な 恰好 かっこう をしていること、みすぼらしいことは、前からよく知っていましたが、乞食に間違えられようとは思いもよりませんでした。
 走り出した馬車の中で、大屋敷の子供達ははしゃいで、しゃべり出しました。
「どうして、お金なんかやったの?」ジャネットはギイ・クラアレンスにいいました。「あの は乞食なんかじゃアないと思うわ。」
 ノラもいいました。
「口の利き方だって、乞食みたいじゃアなかったわ。顔も乞食のとは見えなかってよ。」
「それに、おねだりしたわけでもないじゃアないの。」ジャネットはいいつづけました。「私、あの娘が怒りゃアしないかと思って、はらはらしていたのよ。乞食でもないのに、乞食と見られたら、腹の立つのがあたりまえだわ。」
「でも、あの娘は怒ってやしなかったよ。」と少年はいいました。「あの娘はちょいと笑って、あなたはほんとに親切な、可愛い方だといったよ。その通りさ。僕は僕の持ってるだけをやったんだもの。」
 ジャネットとノラは眼を見合せました。
「乞食の子なら、そんなことはいうはずがないわ。『おありがとう、旦那様、おありがとうございます』っていう風にいって、ぴょこぴょこ頭を下げるはずだわ。」
 セエラはそんな話があったとは、知るよしもありません。が、その時以来、大屋敷の人達は、セエラが大屋敷に感じているような興味を、セエラに対して持ちはじめていたのでした。セエラが通りますと、子供部屋の窓に、子供達の顔がいくつも現れました。皆はよく炉のまわりでセエラのことを話し合いました。
「あの子は、学校で小使娘みたいなことをしているらしいのよ。」と、ジャネットはいいました。「誰もめんどうを見てやるものはないようよ。きっと 孤児 みなしご なのだわ。でも、決して乞食じゃないことよ。なりは汚いけど。」
 で、それからはセエラを『乞食じゃアない小さな女の子』と呼ぶようになりました。あまり長い名なので、小さい子達が急いでいうと、ひどく滑稽に聞えました。
 セエラは、あの銀貨に工夫して穴をあけ、細いリボンの 切端 きれはし を穴に通して、首に掛けました。セエラは、大屋敷がだんだん好きになりました。好きなものは何でもますます好きになるのが、セエラの癖でした。ベッキィにしても、雀達にしても、鼠の家族にしても――エミリイに対しては、殊にそうでした。セエラは前から、エミリイには何でも解ると思っていたのでしたが、時とすると、今にもエミリイが口をきき出しはしまいかと思われるのでした。が、エミリイは何を訊ねられても、返事だけはしませんでした。
「返事といえば、私だってよく返事をしないことがあるわ。 はずか しい目にあった時などは、黙って皆を見返して考えていると、一番いいのよ。 いかり くらい強いものはないけど、怒をじっと我慢しているのはなお偉いわ。だから、苛める人達には返事をしないに限るわ。殊によるとエミリイは、私自身が私に似ているよりよけいに、私に似ているのかもしれないわ。エミリイは味方にさえも返事なんかしない方がいいと思っているのかもしれないわ、何もかも自分の胸一つに包んで。」
 そう思いはしましたが、あまり酷い目にあったり、恥しい目にあったりすると、ただ棒のように立っているきりのエミリイを、生きてるものと想って、自分を慰めるのも、莫迦らしくなって来ることがありました。
 ある寒い晩のことでした。セエラは空いたお腹をかかえ、煮えくりかえるような胸を抱いて、屋根裏へ帰って来ました。と、エミリイは今までにないうつろな眼をして、 鋸屑 おがくず を詰めた手足を棒のように投げ出しているのです。たった一人のエミリイまでこんなでは――セエラはがっかりしてしまいました。
「私は、もうすぐ死んでしまうよ。」
 そういわれても、エミリイは、うつろな眼を見開いているばかりでした。
「もう我慢が出来ないわ。寒いし、着物は濡れてるし、お腹は死にそうに空いているんだもの。死ぬにきまってるわ。朝から晩まで、まア何千里歩いたことだろう。それなのに、料理番の要るものが見付からなかったからといって、晩御飯を食べさせてくれないの。ぼろ靴のおかげで、私が すべ ったら、皆は私を わら うのよ。私は泥まみれになってるのに、皆はげらげら笑ってるのさ。エミリイ、わかったかい?」
 エミリイの 硝子玉 ガラスだま の眼や、不服もなさそうな顔付を見ると、セエラは急にむかむかして来ました。彼女は小さい手を荒々しく振り上げて、エミリイを椅子から叩き落しますと、急に 欷歔 すすりな きはじめました。セエラが泣くなどとは、今までにないことでした。
「お前はやはり、ただの人形なのね。人形よ、人形よ。鋸屑のつまってる人形に、何が感じられるものか。」
 ふと、壁の中にただならぬ物音が起りました。メルチセデクが誰かを 折檻 せっかん しているのでした。
 セエラの 欷歔 すすりなき はだんだんおさまって来ました。こんなにへこたれるのは、いつもの自分らしくない、とセエラは意外に思いました。彼女は顔をあげて、エミリイの方を見ました。エミリイは横眼を使ってセエラの方を見ているようでした。その眼は硝子玉にはちがいありませんでしたけれど、何かセエラに同情しているようでした。彼女は身を かが めて人形を抱き上げました。悪かったという気持で、胸が一杯でした。
「お前が人形なのは、あたりまえだわね。お前は鋸屑なりに、出来るだけのことはしているのかもしれないわね。」
 そういいながら、セエラはエミリイに接吻し、着物の皺を伸して、いつもの椅子の上にかけさせてやりました。
 前からセエラは、隣の空家に誰か住めばいいのにと思っていました。というのは、その うち の屋根裏の窓が、セエラの部屋のすぐ向うにあるからでした。その窓が開かれて、四角い口から誰かの頭や肩が出て来たら、どんなにいいだろうと思われました。
「立派な顔の人だったら、こっちから挨拶してみよう。でも、こんな屋根裏には、召使のほかいるはずはないわね。」
 ある朝、セエラがお使から帰って来ますと、引越の荷車がその うち の前に止っていました。セエラは運びこまれる家具の類から、そこに住むのがどんな人か、たいてい想像のつく気がしました。
「お父様と初めて来た時、ここのお道具はミンチン先生そっくりだ、と思ったことがあったわ。大屋敷にはきっと、むくむくした 肱掛椅子 ひじかけいす や、 寝椅子 ソファー があるに違いないわ。あの紅い壁紙の色だって、大屋敷の人達のように温かで、親切そうで、幸福そうに見えるわ。」
 引越の荷車からは、丹念に加工した 麻栗樹 チイク テーブル や、東洋風に 縫取 ぬいとり の施してある 衝立 ついたて などが下されました。それを見ると、セエラは妙に 懐郷的 ノスタルジャー な気持になりました。彼女は印度にいた時には、よくそうしたものを見たものでした。ミンチン先生に取り上げられたものの中にも、彫刻のある 麻栗樹 チイク の机が一つあったのでした。
「綺麗なお道具だこと! きっとこれを持ってるのは立派なお方よ。大がかりなところもあるから、お金持なのかもしれないわ。」
 その家具には、どこか東洋的なところがある上、立派な 仏殿 ぶつだん に入った仏像が一つ運び出されたのを見ると、この うち の人は印度にいたことがあるに違いありません。
「屋根裏の窓から首を出す人はないかもしれないけど、この うち の人とは、何だかもう親しいような気がするわ。」
 夕方牛乳を運び入れる時、セエラは大屋敷の御主人が、新しく越してきた うち へ入って行くのを見かけました。そのうち出て来て、人夫達に指図をしたりするのでした。きっと大屋敷とこの うち とは親しい間柄なのでしょう。
「子供があれば、大屋敷の子供達も、きっとこの うち に遊びに来るわ。そして、面白がって屋根裏へ登って来ないとも限らないわ。」
 その晩、セエラのところに来たベッキィは、こんなことをいいました。
「お嬢さん、お隣に越して来たのは、印度の人ですってさ、色は黒いかどうか知らないけど。大変なお金持で、大屋敷の旦那様は、その方の弁護士なんですって。あまり心配事があったので、身体を悪くしてしまったのですって、あの人は、木や石を拝む邪宗徒なのよ。何か妙な偶像を運んで行くのを、私見てよ。」
「でもそれは、拝むわけじゃアないんでしょう。仏像にはいいものがあるから、拝むためじゃアなく、眺めるために持ってる人があるのよ。うちのお父様も、一ついいのを持ってらしったわ。」
 ある日、一台の馬車がその うち の前に止りました。 馭者 ぎょしゃ が戸を開けると、大屋敷の父親や、看護婦が下りました。すると、玄関から 下男 げなん が二人駈け降りて来ました。馬車から助け下された印度の紳士は、 骸骨 がいこつ のように痩せ衰えた体を毛皮で包んでいました。大屋敷の主人はひどく心配そうでした。まもなく、お医者様の馬車が着きました。
 その日、セエラがフランス語の組に出た時、ロッティはそっといいました。
「セエラちゃん、お隣には黄色い顔の 小父 おじ さんがいるのね。 支那人 しなじん かしら? 地理の本には、支那人は黄色い顔をしている、と書いてあったけれど。」
「支那人じゃアないことよ。あの小父さんは、大変おからだが悪いのよ。――さア、練習問題をおやんなさい。『ノン・ムシウ。ジュネ・パ・ル・カニフ・ド・モンノンクル。』(いいえ、私は伯父さんのナイフを持っていません。)」
 そうして、それから印度紳士の話が始まりました。


ラム・ダス

 時とすると、広場で見る 夕焼 ゆうやけ もなかなか美しいものです。が、街からは、屋根や煙突に囲まれたほんの少しの空しか見えません。台所の窓からは、そのほんの少しも見えはしないでしょう。 壮麗 そうれい な夕焼の空を くま なく見渡すことのできるのは、何といっても屋根裏の 天窓 ひきまど です。セエラは夕方になると、用の多い階下からそっとぬけて来て、屋根裏部屋の机の上に立ち、窓から頭を出来るだけ高く出して見るのでした。大空はまるでセエラ一人のもののようでした。どの屋根の上にも、空を眺めている人の頭は見えませんでした。セエラは一人何もかも忘れて、いろいろの形にかたまったり、解けたりする雲を、見つめていました。
 ある夕方、セエラはいつものようにテエブルの上に立って、空を眺めていました。西の空は 金色 こんじき の光に被われ、地球の上に金の うしお を流しているようでした。その光の中に、飛ぶ鳥の姿が黒々と浮んで見えました。
「素敵、素敵。何だか恐ろしいほど素敵な日没だわ。何か思いがけないことでも起るのじゃアないかしら。」
 とふいに、何か聞きなれぬ物音がしました。振返ると、お隣の窓が開いて、白い 頭布 タアベン を捲いた印度人の頭が、続いて 白衣 びゃくえ の肩が出て来ました。――「 東印度水夫 ラスカア だ。」と、セエラはすぐ思いました。――彼の胸もとには、一匹の小猿がまつわりついていました。さっき聞いた妙な音は、小猿の声だったのでした。
 セエラが男の方を見ると、男もセエラを見返しました。男の顔は悲しげで、 故郷 ふるさと 恋しいというようでした。霧の多いロンドンでは、めったに太陽を見ることが出来ないので、男はきっと印度で見なれた太陽を見に上って来たのでしょう。セエラはまじまじと男を見て、それから屋根越にほほえみました。セエラは辛い日を送って来た間に、たとい知らぬ人からでも、ほほえみかけられるのはうれしいということを、身に みて感じていたのでした。
 セエラの 微笑 ほほえみ は、男を喜ばしたに違いありません。彼は 夕闇 ゆうやみ のような顔をぱっと輝かして、白い歯並を見せて笑いました。
 猿は男が挨拶しようとした隙に、ふと男の手を離れて、屋根を飛びこえ、セエラの肩に足をかけて、部屋の中に飛びこんでしまいました。セエラは面白がって笑い出しました。が、すぐ猿を主人に――あのラスカアが主人なら、あのラスカアに――返してやらなければならないと思いました。が、セエラはどうして猿を捕えたらいいか、判りませんでした。下手に捕えようとして、逃げ失せられでもすると大変です。で、セエラは、昔ならい覚えた印度の言葉で、
「あの猿は、私に捕るでしょうか?」と、訊ねました。
 男は、セエラが自分の国の言葉で話すのを聞くと、ひどく驚き、同時に喜びました。そしてべらべらと、その言葉でしゃべり始めました。彼の名はラム・ダスというのだそうでした。猿はなかなかいうことを聞かないだろうから、セエラが許してくれるなら、自分が行って捕えようと、彼はいいました。
「でも、屋根と屋根との間を飛んで来られて?」
「造作ないことです。」
「じゃア来てちょうだい。怯えて向うへ行ったり、こっちへ来たり、大騒ぎしているから。」
 ラム・ダスは、天窓からするりと屋根の上に上ると、生れてから今まで屋根を渡って暮して来たかのように、身も軽々とセエラの方へ渡って来ました。彼[#「彼」は底本では「後」]は足音も立てず、天窓からセエラの部屋に すべ りこみ、セエラに向き直って、印度流の 額手礼 サラアム をしました。猿はラム・ダスを見ると小さな 叫声 さけびごえ を揚げました。が、彼が天窓を閉めて捕えにかかると、 戯談 じょうだん にちょっと逃げ廻って、すぐラム・ダスの首に かじ りつきました。
 ラム・ダスは、セエラに厚く礼をいいました。彼のすばやい眼は、室内の惨めな様子を、一目で見てとったようでしたが、セエラに向っては何にも気づかぬふりをして、まるで王女にでも物をいうように話しかけました。彼はじき暇を告げました、「病気の御主人は、猿を失ったらどんなに落胆したでございましょう」などと、繰り返しお礼をいいながら。
 ラム・ダスが去ったあと、セエラはしばらく屋根裏部屋の真中に立ったまま、思い出に耽っておりました。セエラはラム・ダスの印度服や、うやうやしげな態度を見ると、印度にいた時のことを思い起さずにはいられませんでした。一時間前には、料理番にまで罵られていた今のセエラが、かつてはたくさんの召使にかしづかれていたのだと思うと、おかしいくらいでした。それはもう過ぎ去った昔のことで、そんな身分にまたなれるとは思えませんでした。ミンチン先生はセエラが相当の年になるのを待って、たくさんの組を受け持たせるでしょう。その つとめ が、今の雑用より楽だとは思えません。着るものなどは先生らしくさせられるかもしれませんが、それとてきっと女中の着るようなひどいものでしょう。これから先、何かよい方に変化が起って、再び幸福な身分になろうとは、セエラにはどうしても思えませんでした。
 ふと、また何かを思いついたので、セエラの頬は紅くなり、眼は輝き出しました。彼女は痩せた身体をしゃんと伸し、顔を起しました。
「どんなことがあっても変らないことが、一つあるわ。いくら私が 襤褸 ぼろ や、古着を着ていても、私の心だけは、いつでもプリンセスだわ。ぴかぴかする衣裳を着て 宮様 プリンセス になっているのは 容易 たやす いけど、どんなことがあっても、見ている人がなくても、 宮様 プリンセス になりすましていることが出来れば、なお偉いと思うわ。マリイ・アントアネットは玉座を奪われ、牢に投げこまれたけど、その時になってかえって、宮中にいた時よりも、女王様らしかったっていうわ。だから、私マリイ・アントアネットが大好き。民衆がわアわア騒いでも、女王はびくともしなかったそうだから、女王は民衆よりずっと強かったのだわ。首を斬られた時にだって、民衆に勝ってたんだわ。」
 この考えは、今考えついたわけではありません。セエラはいままででも、辛い時には、いつもこの事を考えて、自分を慰めていたのでした。ミンチン先生にひどいことをいわれる時など、セエラは心の中でこういいながら、黙って先生を見返しているのでした。
「先生は、そんなことを、 宮様 プリンセス にいってるのだということを御存じないのね。私がちょっと手を上げれば、あなたを死刑にすることだって出来るのですよ。私は 宮様 プリンセス なのに、先生は愚かな、意地悪なお婆さんなのだと思えばこそ、何といわれても、赦してあげているのよ。」
 セエラは 宮様 プリンセス である以上、礼儀深くなければいけないと思いましたので、ミンチン先生はもとより、召使達が彼女にどんなひどい事をした時も、決して取り乱した様子などしませんでした。
「あの若っちょは、バッキンガムの宮殿からでも来たみてエに、いやにもったいぶってやがる。」と、料理番も笑ったほどでした。
 ラム・ダスとお猿の訪問を受けた次の朝、セエラは教室で、下の組の少女達にフランス語を教えていました。授業時間が終ると、セエラは教科書を片付けながら、 御微行 ごびこう 中の皇族方がさせられたいろいろの仕事のことを考えていました。――アルフレッド大帝は、牛飼のおかみさんにお菓子を焼かされ、 横面 よこつら を張りとばされました。牛飼のおかみさんは、あとで自分のした事に気づいて、どんなに空恐ろしくなったでしょう。もしミンチン先生に、セエラがほんとうの 宮様 みやさま だと解ったら、先生はどんなに 狼狽 あわて るでしょう。――その時のセエラの眼付がたまらなかったので、ミンチン先生は、いきなりセエラの横面を張りとばしました。今考えていた牛飼の女のした通りのことをしたわけです。セエラは夢から醒めて、この事に気がつくと、思わず笑い出しました。
「何がおかしいんです。ほんとにずうずうしい子だね。」
 セエラは、自分が 宮様 プリンセス だったということをはっきり思い出すまで、ちょっとまごまごしていました。
「考えごとをしていたものですから。」
「すぐ『御免なさい』といったらいいだろう。」
 セエラは答える前に、ちょっと 躊躇 ためら いました。
「笑ったのが失礼でしたら、私あやまりますわ。でも、考えごとをしていたのは、悪いとは思えません。」
「いったい何を考えていたのだい? え? お前に、何が考えられるというのさ。」
 ジェッシイはくすくす笑い出しました。それからラヴィニアと肱をつつきあいました。ミンチン先生がセエラに喰ってかかると、生徒達は皆面白がって見物するのでした。セエラは何と叱られても、少しもへこたれないばかりか、きっと何か変ったことをいい出すのです。
「私ね――」と、セエラは丁寧にいいました。「私、先生は御自分のなすってることが、何だか御存じないのだろうと、考えていたのです。」
「私のしていることが、私に解らないっていうのかい?」
「そうです。私が 宮様 プリンセス で、先生が 宮様 プリンセス の耳を打ったりなどなさったら、どんなことになるかしら――私は 宮様 プリンセス として、先生をどう処置したらいいだろうか、と思っていたところです。それから、私が 宮様 プリンセス だったら、先生は私が何をしようと、耳を打つなんてことは、なさらないだろうと思っていました。それからまた、お気がついたら、先生はどんなに驚いて、お 狼狽 あわて になるだろうと――[#「――」は底本では「―」]
「何、何に気がついたらというんですよ。」
「私が、ほんとうの 宮様 プリンセス だということに。」
 教室にいるだけの少女達の眼は、お皿のようになりました。ラヴィニアは席から乗り出して来ました。
「出て行け。たった今、自分の部屋に帰れ。皆さんは 傍見 よそみ せずに勉強なさい。」
 セエラはちょっと頭を下げ、
「笑ったのが失礼でしたら、御免下さい。」といい残して、教室を出て行きました。
「皆さん、セエラを見て? あの子の、妙な様子を見て?」ジェッシイがまず口を開きました。
「私だけは、セエラは身分のある子だということが今にわかっても、ちっとも驚きゃアしないわ。もしあの子がえらくなったら、どうでしょう。」


壁を隔てて

 壁つづきに出来た家並やなみの中に住んでいますと、壁のすぐ向うの物音に、つい気をとられるものです。印度の紳士のうちは、セエラの学校と壁一つでつながっていますので、セエラはよく紳士の生活を空想して、心を楽しませました。教室と、紳士の書斎とは、背中合せになっていますので、セエラは放課後など、やかましくはないだろうかと心配しました。音の通らないように、壁が厚く出来ていればいいがとも思いました。
 セエラは、印度の紳士がだんだん好きになりました。大屋敷が好きになったのは、家族が皆幸福そうだったからでしたが、印度の紳士は不幸そうに見えたので、好きになったのでした。紳士は何か重い病気がなおりきらない風でした。台所の人達の噂によると、彼は印度人ではなく、印度に住んでいたイギリス人で、非常な失敗のため、一時は命までも失いかけたというのでした。彼の事業というのは、鉱山に関したものだそうでした。
「その鉱山やまからダイヤモンドが出るんだとさ。」と、料理番はいいました。「鉱山やまなんてものはなかなか当るもんじゃアないさ。殊に、ダイヤモンドの鉱山やまなんてものはね。」彼は横眼でセエラをじろりと睨みました。「わしらは、誰だって、そんな事ぐらい知ってるさ。」
「あの方は、お父様と同様の目におあいになったのだわ。」と、セエラは思いました。「それから、お父様と同じ病気におかかりになったのだわ。ただあの方は生き残ったばかりだわ。」
 こうしたことから、セエラの心はますます印度の紳士の方へ惹き寄せられて行きました。夜お使に出される時など、窓から、あのお友達の姿が見られるかもしれないと思うと、何となしにいそいそしました。そこらに人影のない時には、セエラは鉄の格子につかまって、彼に聞かすつもりで、「お休みなさい」といって見たりしました。
「聞えないにしても、きっと何かお感じにはなるわ。あたたかい気持ってものは、窓とか、壁とか、そんな障碍物しょうがいぶつを越えて、相手の心に通じるものだと思うわ。貴方はなぜか、和んで温くなるような気がなさりはしない? 私が外で、御病気のよくなるように祈っているからよ。私、あなたがお気の毒でならないの。お父様が頭の痛む時してあげたように、私、あなたの『小さい奥様』になって慰めてあげたいわ。お休みなさい、安らかに。」
 セエラはそういうと、セエラ自身温められ、慰められるのが常でした。
「あの方は、今あの方を苦しめているもののことを、考えていらっしゃるようだわ。でも、もう失ったお金は戻ってきたのだし、御病気だってじきによくおなりになるのだから、あんな悩ましい顔をなさってるはずはないのに。きっと何か、別の御心配があるのよ。」
 もし別の心配があるとすれば、あの大屋敷のお父さんだけは知っているはずだ、とセエラは思いました。モントモレンシイ氏は、よく印度の紳士を訪ねました。モントモレンシイ夫人も、子供達も、時々紳士を訪問しました。病人は、上の二人の女の子――あのセエラがお金をもらった時、馬車の中にいたジャネットとノラを可愛がっているようでした。病人は、子供に対して――殊に小さい女の子に対して、やさしい気持を持っているようでした。ジャネットとノラも、非常に病人になついていました。
小父様おじさまは、お気の毒な方なのよ。私達が行くと、小父様は元気が出るのですって。だから、静かにしていて、元気のつくようにしてあげなければならないわね。」
 ジャネットは長女でしたので、弟や妹が暴れ出さないように、気をつけていました。病人の様子を見て、よい時には印度の話をしてもらったり、疲れたようだと思うと、あとをラム・ダスに頼んでそっといとまを告げたり、そんな気使いをするのもジャネットでした。子供達は皆ラム・ダスが好きでした。ラム・ダスに英語が話せたら、きっと面白い話をたくさんしてくれるだろう、と思っていました。
 印度の紳士は、名をカリスフォドといいました。ある時、ジャネットが彼に『乞食じゃアない小さな娘』に出会った時の話をすると、カリスフォド氏はひどく心を惹かれたようでした。更にラム・ダスが、彼女の屋根裏部屋で猿を捕えた話をすると、ますます心を動かされたようでした。ラム・ダスは、屋根裏部屋の中の様子を、目に見えるように話しました。その話を聞くと、カリスフォド氏は大屋敷の主人にいいました。
「カアマイクル君、この近所には、そんなひどい屋根裏がきっとたくさんあるのだろうね。そして、たくさんの惨めな少女達は、そんな堅い寝床にねているわけだね。それなのに、私は枕の上に身を投げて、財産という重荷にひしがれ、悩まされぬいているのだ。しかも、その財産というのは、大部分私のものじゃアないのだ。」
「いや、しかし。」カアマイクル氏は元気づけるようにいいました。「そう自分ばかり責めるのは、早くめた方が、あなたのためにいいですよ。たとい貴方が、全印度の富をことごとく持ってらしったところで、世の中からわざわいをなくすわけにはいかないでしょう。この近所の屋根裏部屋をことごとく改築したところで、他の方面の屋根裏部屋は、やはり惨めな状態にあるということになりますからな。それまで改築しようっていうのは、無理ですよ。」
 カリスフォド氏は、炉の火をみつめて坐ったまま、爪を噛んでいました。
「どうだね。あの例の子が――私の忘れたことのないあの子が――ひょっとして――いやほんとに、隣家となりのその気の毒な娘みたいな境涯きょうがいにおちこむようなことも、ないとはいえないだろう。」
「もし、パリィのパスカル夫人の学校にいた子が、あなたの捜している娘だとすると――」カアマイクル氏は、宥めるようにいいました。
「あの子は、何不自由なく暮しているはずですね。そのロシヤ人は、非常な金持で、死んだ自分の娘と仲よしだったというので、あの子をもらい受けたという話ですからね。」
「そして、パスカルという女は、あの子がどこへ伴れて行かれたかは、ちっとも御存じないのだからな。」
 カアマイクル氏は、肩をすぼめました。
「何しろ、あの女は抜目のない、俗物のフランス女ですからね。父親を失って、仕送りの絶えたあの子を、うまい具合に手離すことが出来たので、大よろこびだったらしいですよ。すると、養父母達は、あとかたも見せず行方をくらましてしまったわけさ。」
「だが、君は、その子が、もし私の捜している子であったら、というんだろう。『もしも』とね。『確かに』じゃアないんだ。それに、名前も少し違うっていうじゃアないか。」
「パスカル夫人は、カルウと発音したようです。――が、ちょっと発音を間違えただけじゃアないのですかね。境遇は不思議なほどよく似ています。印度にいる英国士官が、母のない娘の教育を頼んだというのですからね。しかも、その士官は破産して死んでしまったというのですからね。」カアマイクル氏は、ふと何かを思いついたらしく、ちょっとの間口を噤んでいました。「が、娘は確かにパリイの学校に入れられたというのですか。確かにパリイだったのですか?」
 カリスフォド氏はいらいらと、せつなそうに口を開きました。
「いや君、私には何一つ確かなことはないんだ。私はその子も、その子の母というのも見たことはないのだからね。ラルフ・クルウとは、少年時代には親友だったが、学校を出てから、印度で会うまで、ずっと離れ離れだったのだからね。私は、大仕掛な鉱山の計画に没頭していた。あの男も夢中になっていた。だから、二人は会えばほとんどその話ばかりしていた。知っているのはただ、その子がどこかの学校に入っているという事だけなのだ。だが、どうしてその事を知ったか、それも、今は思い起すことが出来ない。」
 カリスフォド氏は昂奮して来ました。彼は、病後の頭で、失敗当時のことを考え出すと、きまって昂奮して来るのでした。
 カアマイクル氏は、心配そうに病後の人を見守っていました。大事なことを訊かなければならないのでしたが、今の場合十分注意して、静かに訊ねなければならないのでした。
「でも、学校は、パリイだとお考えになる理由はあるのですか。」
「ある。というのは、あの子の母はフランス人だった! それに、母親は、娘をパリイで教育したがっていた、と聞いたことがある。」
「すると、パリイにいそうですな。」
 印度の紳士は、身体をのめり出させ、長い骨ばかりの手で、テエブルを叩きました。
「カアマイクル君、私はどうしてもその娘を見付け出さにゃアならん。生きてるなら、見付かるはずだ。その娘がひとりぼっちで一文無になってでもいたら、私が悪いからだということになる。こんな煩いが心にあるのに、何でのんきな顔をしていられる? 我々の夢が実現されて、ふいに幸運が舞いこんで来たというのに、あの娘は往来で物乞いをしているかもしれないのだ。」
「いや、そう昂奮なさらないで。あの子が見付かりさえすれば、一財産渡してやれるのだと思って、お気を静めて下さい。」
「あれは、いつも娘のことを『小さい奥様』と呼んでいた。だが、あの鉱山奴やまめのおかげで、我々は何もかも忘れてしまったのだ。あれは娘の学校の話をしたかもしれない。が、私は忘れてしまった。すっかり忘れてしまった。どうしても思い出せない。」
「しかし、まだその娘を見付けることは出来ます。パスカル夫人の所謂いわゆる『御親切なロシヤ人』の捜索を続けるんですな。あの女は、何だかモスコウにいるような気がするといっていましたよ。それを手がかりとして、とにかく、私はモスコウへ行ってみることにしましょう。」
「旅行の出来る身体なら、私も一緒に行きたいのだけれど、この健康では、こうして毛皮にくるまって、じっと火を見ているより他ないのだ。何だか火の中から、クルウ大尉の若い、快活な顔が、私を見返しているような気がする。何か私に訊ねているような顔付だ。私はよくあれの夢を見る。夢の中では、その訊ねたいことを、口でちゃんというのだ。君、あれがどんなことを訊くと思う?」
「よくわかりませんね。」
「あれは、いつでもこういうのだ。『トム、なつかしいトム。小さな奥様はどこにいるのだい?』とね。」彼はカアマイクル氏の手をしかと掴んで、握りしめました。「私は、それに返事が出来るようにならなければならん。どうか、あの娘を見付けてくれ。頼む。」
          *        *        *
              *        *        *
 壁の向うでは、セエラが、晩の食事にまかり出て来たメルチセデクと話していました。
「メルチセデクや、今日という今日は、宮様プリンセスつもりも辛かったわよ。いつもどころの辛さじゃアなかったわよ。だんだん寒くなって、往来がじめじめして来ると、私の務は辛くなるばかりだわ。ラヴィニアったら、私が裾を泥んこにしているって、嗤うのよ。私、思わずかっとして、あぶなく何かやり返してやるところだったけど――でも、やっと我慢したの。かりにも宮様プリンセスが、ラヴィニアみたいな下等な人の相手になるわけにはいきませんものね。でも、舌でも噛まなきゃア我慢出来なかったわ、私自分の舌を噛んだの。今日はおひるすぎから、とても、寒くなったのね。今夜も寒いわ。」
 ふと、セエラは黒髪を両手の中にうずめました。彼女は一人だと、よく頭を抱えるのでした。
「ああお父様、もうずいぶん昔だわね、私がお父様の『小さな奥様』だったのは。」
 同じ日のうちに、壁の向うとこちらとに、こんなことが起ったのでした。

 



人の子

 惨めな冬でした。セエラは幾日となく雪を踏んで使に出ました。雪解ゆきどけの日は、更に使い歩きが辛いのでした。かと思うと、ひどい霧の日が続きました。そんな時、街路は幾年か前セエラが初めて父と辻馬車を走らせた時のようでした。そんな日には、あの大屋敷の窓は、殊にも居心地よさそうに見えました。印度紳士のいる書斎は、いかにも温かそうでした。それにひきかえ、屋根裏部屋の暗さといったらありませんでした。もう眺めようとしても、夕焼や日の出は見られませんでした。星もあるとは思えませんでした。雲は低く、泥のような灰色でした。霧はなくても四時にはもう日が暮れた感じで、蝋燭なしには、梯子を登ることも出来ませんでした。台所の女中達も、気がくさくさするとみえ、ますます辛くあたりました。ベッキイはまるで奴隷の子のように逐い使われました。
「お嬢様、あんたでもいなかった日には――あんただの、バスティユだの、隣の部屋の囚人だってつもりだのがなかった日には、私死んじまいそうだわ。この頃はここ、まったくバスティユみたいじゃない? 先生はだんだん看守頭みたいになってくるし、私、いつかお嬢様の仰しゃった大きな鍵ね、あれを先生が持っているのが、見えるような気がするわ。あの料理番ね、あれは下まわりの看守よ。お嬢様、その先を話してちょうだいな。あの壁の下へ掘った地下道の話をして。」
「何かもっと温かいお話がいいわ。」セエラはがたがた震えていました。「あなたも、夜具を持って来てくるまるといいわ。私も夜具を着るから、寝台の上で、夜具をよくまきつけて、それから、あの印度紳士の猿のいた熱帯の森の話をしてあげるわ。」
「そのお話の方が温かいことは温かいわ。でも、お嬢様が話すと、バスティユのお話を聞いてても、何だか温かになるのよ。」
「話に気をとられて、寒いことを忘れるからよ。私こう思うのよ。心の職務つとめは、身体が可哀そうな状態にある時、何かほかへ気を向けさせるようにすることだと。」
「そんなこと、あんたに出来て?」
「出来ることもあるし、出来ないこともあるわ。この頃幾度もそんな経験をしたので、前よりはずっと出来やすくなったわ。何かたまらないことがあると、私いつでも一生懸命、自分は宮様プリンセスだと考えてみるの。『私は、妖精フェアリイ宮様プリンセスだ、妖精フェアリイの私を傷けたり、不快にしたり出来るものがあるはずはない。』私自分にそういってみるの。そうするとなぜだか、いやな事は皆忘れてしまってよ。」
 そのうち、こんなことが起りました。四五日雨の続いた後で、町は肌を刺すように寒く、ぬかるみの上に物憂い霧がたてこめていました。そんな日に限って、セエラは何度となく使に出されるのでした。濡れそぼれて帰ってくると、ミンチン先生は何かの罰だといって、御飯も食べさせてくれませんでした。餓え、凍え、顔までつめられたような色になったセエラは、道行く人の同情を惹くくらいでした。が、彼女は同情の眼で見られているのも知らず、力の限り『つもり』になろうと努力していました。
「私は乾いた服を着ているつもりになろう。満足な靴を穿き、長い厚い外套を着、毛の靴下を穿き、漏らぬ雨傘を持っているつもりになろう。それから、それから――焼きたてのパンを売ってる店のそばまで来ると、二十銭銀貨が落ちていたとする。そしたら、私は店へ入って、ふうふういうような甘パンを買って、息もつかずにぺろぺろと食べてしまうわ。」
 そう独言をいいながら、足許に気をつけ、ぬかるみの中を歩道へ渡ろうとしますと、そこの溝の中に、何か光っているものがあるのを、セエラは目にとめました。泥にまみれてはいましたが、それは確かに銀貨でした。二十銭ではないが、十銭の銀貨でした。
「まア、ほんとだったわ。」セエラは、思わず呼吸をはずませました。
 とまた、嘘のようではありませんか。セエラが眼を上げると、真向いにパン屋の店があるのでした。店では一人、愉快な血色のよい母親らしい様子の女が、竈から今取り出したばかりの甘パンを――大きくふくれた、乾葡萄ほしぶどうの入った甘パンの大皿を、窓をさし入れているところでした。
 セエラは、この不思議な出来事にどきどきしているところへ、窓に甘パンの出てくるのを見、パン屋の地下室から漂うて来るおいしそうなにおいを嗅いだので、ちょっとくらくら倒れそうな気持になりました。
 セエラは、この銀貨を使ったってかまわないのは知っていました。もう長いこと、泥濘ぬかるみの中に落ちていたようですし、この人混の中で、落した人の判ろうはずもありません。
「でも私、パン屋のおかみさんに、何かお落しになりはしなかって? と訊いてみよう。」
 セエラは元気なくそう独言すると、歩道を横切り、濡れた足で入口の階段を登ろうとしました。その拍子に、セエラは何かをふと目に止め、思わず足を止めました。
 セエラの足を止めたのは、セエラよりも惨めな子供の姿でした。子供の姿は、まるで一塊ひとかたまり襤褸ぼろでした。赤い泥まみれな素足が、その襤褸の中から覗き出していました。恐ろしくこんがらがった髪の下から、大きな、ひもじそうな眼を見張っていました。セエラは一目で、この子が餓えているのを知りました。と、たちまちセエラは可哀そうでたまらなくなりました。
「この娘も、やっぱり人の子なのだわ。そして、この子は私よりもひもじいようだわ。」
 その子は、顔を上げてちょっとセエラを見つめると、身体をずらせて、セエラの通る隙をつくりました。その子は誰にでも道をゆずりつけていたのです。巡査にでも見付かったが最後「退け!」といわれることも、のみこんでいました。
 セエラは銀貨を握りしめ、ちょっとためらってから、その子供にいいかけました。
「あなた、ひもじい?」
「ひもじいのなんのって、たまらないの。」
「お午昼ひるを食べなかったの?」
「お午飯ひるどころか、朝飯も、晩飯もあったものじゃアないわ。」
「いつから、食べないの?」
「知るものか、今日は朝から何一つ食べやしない。どこへ行ってもくれないの。あたい、下さい下さいって歩き廻ったんだけど。」
 その子の姿を見ているだけで、セエラは気絶しそうにお腹が空いて来ました。セエラは切なくてたまらなくなりました。が、頭の中にはふと、またいつもの空想が働き出して来ました。
「もし、私が宮様プリンセスなら――位を失って困っている時でも――自分より貧しい、ひもじい人民にあったら、きっと施しをするわ。私は、そんな話をたくさん知っているわ。甘パンは二十銭で六つ――と、六つばかり一人で食べたって足りないくらいだわ。それに、私の持ってるのは十銭銀貨だけど、でも、ないよりかましだわ。」
 セエラは乞食娘に、
「ちょっと待ってらっしゃいね。」といい残して、パン屋の店へ入って行きました。店の中は温かで、おいしそうな匂がしていました。おかみさんは、ちょうどまた出来たての甘パンを窓に入れかけているところでした。
「ちょっとお伺いしますけれど、あなたはあの、十銭銀貨をお落しになりませんでしたか?」
 いいながらセエラは、たった一つの銀貨をおかみさんの方にさし出しました。おかみさんは銀貨を眺め、それからセエラの顔を眺めました。ずいぶん汚れた着物を着ているけれど、買った時にはなかなかよいものだったにちがいない、と思いました。
「どう致しまして、私落しはしませんよ、お拾いなすったの?」
「ええ、溝の中に落ちてたの。」
「じゃア、遣ったってかまわないでしょう。一週間ぐらい溝の中に転がってたのかもしれませんからね。誰が落したか、判るものですか。」
「私もそう思ったのですけれども、一応お訊ねした方がよくはないかと思って。」
「珍しい方ね。」
 おかみさんは人のいい顔に、困ったような、同時に、何か心を惹かれたような表情を浮べました。そして、セエラがちらと甘パンの方を見たのを知ると、
「何かさしあげましょうか。」といいました。
「あの甘パンを四つ下さいな。」
 おかみさんは、窓から甘パンを出して袋に入れました、六つ入れたのを見て、セエラは
「あの、四つでいいんですよ。私、十銭しか持ってないんですから。」といいました。
「二つはおまけですよ。あとでまた上るといいわ、あなたお腹がすいてるんでしょう。」
「ええ、とてもひもじいの、御親切にして下すって、ありがとうございます。」
 セエラは、外には自分よりも、ひもじい子がいるのだということを、口に出しかけましたが、あいにくそこへお客が二三人一度に入って来ましたので、とうとうそれはいわずにしまいました。
 乞食娘は、入口の階段の隅にちぢこまっていました。びしょびしょな襤褸ぼろにくるまった彼女は、気味悪いばかりでした。彼女は、じっと目の前を見つめ、苦痛のあまりぽかんとした顔をしていました。ふいに涙が湧き上って来たので、彼女はびっくりして、ひびだらけの黒い手の甲で眼を擦りました。何か独言をいっているようでした。
 セエラは、袋をあけて、甘パンを一つ取り出しました。セエラの手は熱いパンのおかげで、もう少し温かくなっていました。
「ほら、これは温かでおいしいのよ。食べてごらんなさい。少しはひもじくなくなるから。」
 乞食娘は、思いがけないよろこびにかえって怯えたらしく、セエラの顔を穴のあくほど見ていましたが、じきひったくるようにパンを取ると、夢中で口の中につめこみました。
「ああおいしい、ああおいしい。ああ、おいしい。」
 しゃがれた娘の声は、聞くに忍びないようでした。セエラは甘パンをあと三つ娘にやりました。
「この子は、私よりもひもじいのだわ。この子は餓死うえじにしそうなのだわ。」四つ目のパンを渡す時、セエラの手はわなないていました。「でも、私は餓死うえじにするほどじゃアないわ。」そういって、セエラは五つ目のパンを下に置きました。
 餓えきったロンドンの野恋娘のこいむすめが、夢中でパンをひったくり、貪り食っているのを見棄てて、セエラは「さようなら。」といいましたが、娘は食べるのに夢中でしたから、礼儀をわきまえていたにしたとこで、セエラに一言いちごんお礼をいう暇もなかったに違いありません。まして彼女は、礼儀などというものは、少しも知らぬ野獣に過ぎなかったのでした。
 セエラは車道を横切って、向うがわの歩道に辿りついた時、もう一度娘の方をふりかえって見ました。娘はまだ食べるのに夢中でしたが、かじりかけてふとセエラの方を見て、ちょっと頭を下げました。娘はそうしてセエラが見えなくなるまで、かじりかけのパンをかみきりもせず、じっとセエラを見守っていました。
 ちょうどその時、パン屋のおかみさんが窓から外を覗きました。
「おや、こんな事ってないわ。あの娘はくれともいわないのに、この乞食にパンをやってしまったんだね。しかも、自分は食べたくないどころか、あんなにひもじそうな顔をしていたのに。」
 おかみさんは窓の奥でちょっと考えていましたが、何でも、様子を訊いてみたくなったので、乞食娘のいる方へ出て行きました。
「そのパンは、誰にもらったの?」
 娘はセエラの行った方に頭を向けて、こっくりしました。
「あの子は、何といったの?」
「ひもじいかって。」
「で、何と答えたの?」
「その通りだといったの。」
「すると、あの子はパンを買って、お前にくれたのだね。」
 娘はまたこっくりをしました。
「で、いくつくれたの?」
「五つ。」
 おかみさんは考えこんで、小声にいいました。
「自分のためには一つしか残しておかなかったのだよ。食べようと思えば、一人で六つ残らず食べてしまえるくらい、お腹がすいてたのにね。」
 おかみさんは、向うの方に消えて行くセエラの小さな後姿を見送りながら、いつになく心の乱れるのを覚えました。
「もっとゆっくりしていてくれればよかったのにねえ。あの子に十二も上げておけばよかった。」それから、乞食娘の方にいいました。
「お前、まだひもじいの?」
「ひもじくない時なんてありゃアしない。でも、いつもみたいに、ひどくひもじかアないわ。」
「こっちへ、お出で。」
 おかみさんはそういって、店の戸を開きました。そして、奥の暖炉を指していいました。
「さア温まるといいわ。いいかい、これから一かけのパンも得られない時には、ここへ来て、下さいというのだよ。あの娘のために、私はいつでも、お前にパンを上げるから。」
          *        *        *
              *        *        *
 セエラは残った一つの甘パンで、どうやら自分を慰めることが出来ました。とにかく、それは熱かったし、ないよりはましでした。セエラは歩きながら、小さくちぎって、すこしずつゆっくりと食べました。
「このパンが、魔法のパンで、一口食べると、お午飯ひるを食べたぐらいお腹がふくれるといいな。そうすると、これだけ皆食べたら、食べ過ぎてお腹がはちきれそうになるはずだわ。」
 日はもう暮れかけていましたが、大屋敷の窓にはまだ鎧戸よろいどが下してありませんでしたので、内部なかの様子をちらと覗くことが出来ました。いつもは、父親が椅子に坐って、子供達に取りまかれているのでしたが、今日は旅にでも出るらしく、母親や子供達とお別れの接吻をしていました。
 玄関の戸が開いたので、セエラはいつかお金をもらった時の事を思い出し、見つからぬ先に逃げ去ろうとしました。が、こんな話は聞き洩しませんでした。
「モスコウは、雪で包まれてるでしょうね。どこも、かしこも、氷ばかりなのでしょうね?」というのはジャネットの声でした。
「お父様、露西亜馬車ドロスキイにお乗りになる?」もう一人の娘はいいました。「皇帝ツアルにもお会いになる?」
「そんなことは手紙で知らせるよ。農民ムジイクやなんかの絵端書えはがきも送ってやろう。さ、もううちにお入り。いやにじめじめしているね。お父さんは、モスコウなんかへ行くのはやめて、皆とうちにいたいんだけどな。」
 彼は、それから「おやすみ」をいって、馬車へ飛び乗りました。
「お父様、その娘にあったら、よろしくいって下さいね。」
 ギイ・クラアレンスは、靴脱のところで跳ねまわりながらいいました。
 戸を閉めて、室内へやに戻る道々、ジャネットは、ノラにいいました。
「あの『乞食じゃアない小さな女の子』が通って行ったのを見た? ずぶぬれで、寒そうな顔していたわ。あの子は振り返って、肩の上から私達の方を見ていたわ。お母さんのお話だと、あの子の着物は誰か大変お金持の人からもらったもののようですって――きっと、もういたんで着られなくなったから、あの子にやったのね。」
 セエラは街を横切って、ミンチン先生の地下室に入って行きました。ぞくぞくして、倒れそうでした。
「ギイ・クラアレンスのいったその娘というのは、誰なのかしら?」


メルチセデクの見聞記

 ちょうどこの日の午後、セエラが使に出ている留守に、屋根裏部屋には奇妙なことが起りました。それを見聞みききしたのはメルチセデクだけでした。彼はセエラの出た後へ、何か嗅ぎ出しに出かけて来ていたのでしたが、やっと一つパン屑を見付け出したとたん、屋根の上で何かがたがたというのを耳にしました。物音はだんだん天窓に近づいたと思うと、不思議や天窓は押し開かれ、黒い顔が一つ、そこから部屋の中を覗きました。続いてまた別な顔が、その背後うしろに現れました。黒い顔はラム・ダスで、もう一人は印度の紳士の秘書役だったのですが、メルチセデクにはそんなことは判るはずもありませんので、黒い顔の男がかたとも音を立てずに、軽々と窓口から下りて来るのを見ると、尻尾をまいて、自分の穴へ逃げ帰ってしまいました。彼は穴の口に平たく坐り、眼をお皿のようにして、様子を見ていました。
 若い秘書役はラム・ダスと同様、音も立てずに天窓からすべりこんで来ました。彼はメルチセデクの尻尾をひっこめるところを、ちらと見て、小声でラム・ダスに訊きました。
「ありゃア鼠かい?」
「はい、鼠でございますよ。壁の中にどっさりおります。」
「へエ、あの子が怖がらないなんて不思議だね。」
 ラム・ダスはそれを聞くと、手を上げてちょっと様子をつくり、慎ましやかにほほえみました。彼はまだ一度しかセエラと話したことはないのですが、セエラについてなら、何でも詳しく語ることが出来ました。
「子供というものは、何とでも友達になるものでございますよ。私がそっと来て、ここから覗いておりますと、あの子は、雀や鼠まで手なずけているんでございますよ。ここの奴隷娘は、毎日あの子を慰めに来ます。こっそりあの子に会いに来るちいちゃな子もございます。それから、その子よりは大きい子で、あの子の話をきもせず聞いている子も一人ございます。女主人などは、あの子をまるで非人ペエリア扱いにしていますが、でも、あの子は王族の血でもひいてるような挙止ものごしをしています。」
「君は、だいぶ詳しく知っているようだね。」
「あの子の生活なら、何でも毎日見て知っております。出かけて行くのも、戻ってくるのも、知っております。凍えていることも、ひもじいことも、夜中まで勉強していることも、知っております。子供達が忍んで来ると、あの子もうれしいと見え、ひそひそと話したり、笑ったりしています。病気にでもなったらすぐ判りますから、そんな時には、出来ることなら、来て看護してやりたいと思っております。」
「でも君、大丈夫かい? 誰か来やアしないかい? あの子がだしぬけに戻って来るようなことはないかい? 僕達が来ているのを見つけでもしたら、あの子はたまげてしまうだろう。すると、カリスフォドさんのせっかくの計画も、水の泡になるからね。」
 ラム・ダスはそっと戸口に身をよせて立ちました。
「あの子の他、誰も来るはずはありません。今日は手籠を持って出て行きましたから、なかなか戻っては来ないでしょう。それに、ここに立ってさえいれば、誰の足音だって、梯子を登りきらぬうちに聞えるから、大丈夫です。」
「じゃア、しっかり耳を澄ましていてくれたまえ。」
 秘書はそういうと、部屋の中を静かに歩き廻って、そこにあるものを手早く手帳に書き込みました。彼はまず寝台をおさえて、思わず声をあげました。
「まるで石だ。あの子のいない間に取りかえておかなければ。何か、特別の方法で持ち込むんだね。今夜は、とてもだめだろうが。」
 彼は汚れた夜具や、火のない炉などを見廻り、それらのものを書きこんだ一枚を手帳から破り取って、ポケットに入れました。
「だが、妙なことを始めたものだね。誰がこんなことをするといい出したんだい?」
「実は、私が初めに思いついたんでございますよ。私は、あの子が好きなんでございます。お互に一人ぼっちでございますのでね。あの子はよく自分の空想を、忍んで来る友達に話して聞かせます。ある晩のこと、私も悲しい思いに打たれておりましたので、あの天窓の所に身をよせて、中の話を聞いておりますと、あの子は、この部屋が居心地よくなったら、どんなにいいだろう、といっておりました。話しているうちに、あの子はふとその事を思いついたのです。御主人にそれをお話しますと、では、あの子の空想を実現させてやろう、と仰しゃるのでした。」
「だが、あの子の寝ている間に、そんなことが出来るだろうかね。もし眼を覚しでもすると――」
「私は、猫の足で歩くように歩いてお目にかけますよ。子供というものは、不幸な時でも、ぐっすり眠るものでございます。今までとても、入ろうとさえ思えば、あの子に寝返り一つ打たせず、入って行くことが出来たに違いありません。ですから、誰かが窓から品物を渡してくれさえすれば、私は巧くやりおおせてごらんに入れます。あの子はあとで眼を覚して、魔法使でも来ていたのだろうと思うでございましょう。」
 二人は、またそっと天窓から脱け出して行きました。二人が見えなくなると、メルチセデクはほっとして、パン切でも落して行きはしなかっただろうかと、そこらを駈け廻りはじめました。