A LITTLE PRINCESS

小公女・原作

プリンセス編

小間使い編

魔法編

小公女セーラ物語

魔法

お客様

「この子だ」

「つもりはなかった」

アンヌ


十五 魔法

 セエラがお使から帰ってくると、隣家となりでは、ラム・ダスが鎧戸を閉めているところでした。セエラは鎧戸の間から、ちらと部屋の中を覗きました。覗く拍子に、もうずいぶん長いこと綺麗な部屋の中に入ったことはないなと思いました。
 窓の中にはいつものように、赤々と火が燃えており、印度紳士は相変らず悩ましげに、頭を抱えて坐っておりました。
「お可哀そうに! あんなにして、何を考えていらっしゃるのかしら?」
 紳士が考えていたのは、次のような事でした。
「もし――せっかくカアマイクル君がモスコウに行ってくれても、その娘が我々の捜している子供でなかったら、どうすればいいのだろう。」
 セエラはうちに入ると、いきなりミンチン先生に、遅いといって叱られました。料理番も叱られたあとだったので、殊更ひどくセエラにあたりました。
「あの、何かいただけませんか?」
 セエラは元気のない声で訊ねました。
「お茶は出からしで、もう駄目だよ。お前のために温かにして、とっといてやるとでも思っていたのかい?」
「私、お午飯ひるもいただきませんでしたの。」
「戸棚の中にパンがあるよ。」
 セエラは古いパンだけを食べて、長い梯子段を登って行きました。いつまでたっても登りきれぬ気のするほど、セエラは疲れていました。セエラは少し登っては休み休みしました。やっと登りきろうとすると、屋根裏部屋の戸の下から、あかりが洩れているので、うれしくなりました。またアアミンガアドが来ているのでしょう。セエラはまるまるとしたアアミンガアドが赤いショオルにくるまっているのを見るだけでも、わびしい部屋が少し温まるようでうれしかったのでした。
 アアミンガアドはセエラを見ると、寝台の上からいいました。
「セエラさん、帰って来て下すってよかったわ。メルチセデクが、いくら逐っても、私のそばへやって来て、鼻をくんくんさせるのですもの、私怖かったわ。メルチイは飛びつきゃしないこと。」
「いいえ。」と、セエラは答えました。
「セエラさん、あなた大変疲れてるようね。顔色が大変悪いわ。」
「とても疲れちゃったわ。」セエラはびっこの足台にぐたりと坐りました。「おや、メルチセデクがいるのね。可哀そうに、きっと御飯をもらいに出て来たのだわ。でも、今夜は一かけも残っていないのよ。帰ったらおかみさんに、私のポケットには何にもなかったといっておくれ。あんまり皆に辛くあたられたので、お前のことは忘れてしまって、悪かったわね。」
 メルチセデクは、どうやら合点がいったようでした。彼は、満足そうではありませんでしたが、諦めたように、脚ずりをして帰って行きました。
「アアミイ、今夜会えようとは思わなかってよ。」と、セエラはいいました。
「アメリアさんは、伯母さんの所へ泊りにいらしったのよ。だから、いようと思えば、明日の朝までだっていられるわけよ。」
 アアミンガアドは、天窓の下のテエブルを指さしました。その上には、幾冊かの本が積んでありました。彼女はがっかりしたように、
「お父様がまた本を送って下すったの。」といいました。セエラはたちまちテエブルに走りより、一番上の一巻を取ると、手早くページをめくり出しました。もう一日の辛さなどは、すっかり忘れていました。
「何て綺麗な本でしょう。カアライルの『フランス革命史』ね。私、これをよみたくてたまらなかったのよ。」
「私ちっともよみたかなかったわ。でも、読まないとパパに怒られるのよ。パパは、私がお休みにうちに帰るまでに、すっかり憶えさせようってつもりなのよ。私どうしたらいいでしょう。」
「こうしたら、どう? 私がよんで、あとですっかりあなたに話してあげるわ。憶えやすいようにね。」
「あら、うれしい。でも、あなたにそんなこと出来るの?」
「出来ると思うわ。小さい人達は、私のお話をよく憶えてるじゃアないの。」
「もし、あなたが憶えやすいように私に話して下さるなら、私、何でもあなたに上げるわ。」
「私、あなたから何にもいただこうとは思わないけど、でも、この本は欲しいわ。」
「じゃアあげるわ。私は本なんか、好こうと思っても好きになれないのよ。私は利口じゃアないの。ところが、お父様は御自分が何でもお出来になるものだから、私だって出来ないはずはないと思ってらっしゃるのよ。」
「私に本を下すったりして、あとでお父様に何て仰しゃるつもり?」
「何ともいわないわ。私がお話を憶えていさえすれば、よんだのだと思うでしょう。」
「そんな嘘をいうものじゃアないわ。嘘は悪いばかりでなく、卑しいことよ。だから、御本を読んだのは、セエラだと仰しゃればいいじゃアないの?」
「でも、パパは私に読ませたいのよ。」
「読ませたいよりは、憶えこませたいのよ。だから、憶えさえすりゃア、よんだのは誰だって、きっとおよろこびになるわ。」
「どのみち、憶えさえすりゃアいいのよ。あなたが私のパパだったら、きっとそれでいいとお思いになるでしょう。」
「でも、あなたが悪いからじゃアないわ。あなたの――」
 頭の悪いのは、とあぶなくいいかけて、セエラは口をつぐみました。
「私が、どうしたの?」
「すぐ憶えられないのは、あなたが悪いからじゃアないっていうのよ。すぐ憶えられたって、ちっとも偉かアないのよ。親切なことの方が、どんなに値打があるかしれないわ。ミンチン先生なんか、いくら何でも知っていたって、あんなだから皆に嫌われるのよ。頭はよくても悪い事をしたり、悪い心を持ってたりした人がたくさんあるわ。ロベスピエルだって――憶えてるでしょう? いつかお話してあげたロベスピエルのこと。」
「そうね、少しは憶えてるけど。」
「忘れたのなら、もう一度話してあげるわ。ちょっと待ってね。この濡れた服を脱いで、夜具にくるまるから。」
 セエラは寝台の上で肩を夜具に包み、膝を抱えて、血腥ちなまぐさいフランス革命の話を始めました。アアミンガアドは眼を見張り、固唾をのんで耳を傾けました。怖いようでしたが、同時にまたぞっとするような面白さもありました。ロベスピエルのこと、ラムバアル姫のことなど、忘れようと思っても、忘れられなくなりました。
 二人は、父のセント・ジョン氏に、セエラに話してもらって憶える計画を、正直に打ちあけることにきめました。で、本は当分セエラの所に置くことにしました。
 セエラは話している間も、倒れそうに空腹でした。アアミンガアドが帰ってしまったら、ひもじさのあまり、眠られなくなりはしまいかと思いました。いつもは、そんなことに一向気のつかないアアミンガアドも、ふとセエラを見てこういったくらいでした。
「私、あなたぐらいに痩せたいと思うわ。でも、今日はあなたいつもよりも痩せて見えるわね。眼もいつもより大きいようだし、肱のところには、とがった骨が出ているわ。」
 セエラは、自然にまくれ上った袖口を、引き下しました。
「私、小さい時から痩せてたのよ。そして、大きな緑色の眼だったのよ。」
「私、あなたのその不思議な眼が好きなの。どこか遠いところを見ているようで、とてもいいわ。その緑色がとてもいわ。でも、たいていは黒いように見えるのね。」
「猫の眼なのよ。でも、猫のように暗いとこまで見えるわけじゃアないのよ。見えるかと思ってやってみたけど、駄目だったわ。暗くても見えるといいわね。」
 ふと、天窓の上にかすかな音がしました。二人とも見ずにしまいましたが、黒い顔が天窓に現れて消えたのでした。
「今の音は、メルチセデクじゃアないわね。何かが石盤瓦スレエトの上を、そうっと擦って行くような音だったわ。」
 耳の早いセエラは、そういいました。
「何でしょう? まさか、泥棒じゃアないでしょうね。」
「まさか。盗んで行くものなんか、何もないじゃア――」
といいかけた時、また何か物音がしました。今度は二階で、ミンチン先生が怒鳴っている声でした。セエラは寝台から飛び降りて、火を消しました。
「先生は、ベッキイを叱ってるのよ。」
「ここにやって来やアしない?」
「大丈夫。寝たと思ってるでしょう。でも、じっとしていてね。」
 ミンチン先生は、屋根裏まで上って来ることなど、めったにありませんでした。が、今夜は立腹のあまり、中途までぐらいは上って来ないとも限りませんでした。それに、ベッキイを小突きまわしながら、あとから上ってくるような気配さえしました。
「嘘つき! 料理番の話だと、なくなったのは今日ばかりじゃアないそうじゃアないか。」
「でも、私じゃアございません。私、お腹はすいてたけど、そんな、そんな――」
「監獄に入れてやってもいいくらいだ。盗んだり、つまんだり。肉饅頭ミイト・パイを半分も食べちゃったんだね。」
「私じゃアないんですってば! 食べるくらいなら、皆食べちまうわ。――でも私、指一つさわりゃアしなかったんだわ。」
 そのパイは、ミンチン先生が夜おそく食べようと思って、とっておいたものでした。先生は息を切らして階段を上りながら、ぴしぴしベッキイを打っているようでした。
「嘘なんかつくな。たった今、部屋に入ってしまえ。」
 戸がしまって、ベッキイが寝台に身を投げる音がしました。彼女は泣きじゃくりながらいいました。
「食べる気なら、二つぐらい食べちまうわ。一口だって食べやしなかったのに。料理番が、あの巡査に食べさしたんだわ。」
 セエラは真暗な室内に立ったまま、歯をくいしばり、手をさしのべて、てのひらを開いたり握りしめたりしていました。もうじっとしてはいられないという風でしたが、でも、ミンチン先生が降りて行ってしまうまでは、身動きもせずにおりました。
「ずいぶんひどいわ。料理番はベッキイに自分の罪をなすりつけてるのよ。ベッキイはつまみ食いなんかするものですか。あの子は、時々ひもじくてたまらなくなると、塵溜ごみためからパンの皮を拾って食べてるくらいだけど。」
 セエラは両手をひしと顔に押しあてて、欷歔すすりなきはじめました。セエラが泣くとは――アアミンガアドは、何か今まで気のつかなかったことに気のついた気がしました。ことによると――ことによると――彼女の親切な鈍い心の中に、恐ろしい事実がようよう姿を見せはじめました。彼女は手さぐりでテエブルの所へ行き、蝋燭に火をつけました。灯がともると、身をこごめて気づかわしげにセエラを見ました。
「セエラさん、あの――あなた、一言も話して下さらなかったけど、あの、失礼だったら御免なさい――でも、あなた、ひもじいんじゃなかったの?」
「ええ、ひもじいのよ。あなたにでも食いつきたいほどひもじいのよ。それに、ベッキイの泣声を聞くと、よけいひもじくなってくるの。あの子は私よりもひもじいのよ。」
「あら、私、ちっとも気がつかなかったなんて!」
「私も、あなたにさとられたくなかったのよ。あなたに知られると、私乞食になったような気がするからいやだったの。もう見たところは乞食も同じですけどね。」
「そんなことないわ。着物はちょっと変だけど、乞食になんて見えるものですか。お顔が第一、乞食とは違うわ。」
「いつか私、小さい男の子から施しを受けたことだってあるのよ。」セエラは自分をさげすむように笑って、衿の中から細いリボンを引き出しました。「ほら、これよ。私の顔が物欲しそうだったからあの坊ちゃんもクリスマスのお小遣を、下さる気になったのよ。」
 その銀貨を見ると、二人は眼に涙をためながら、笑い出しました。
「その坊ちゃんて、だれなの?」
「可愛い坊ちゃんだってよ。大屋敷の子供の一人で、足がまるまるしてるのよ。きっとあの子は自分は贈物やお菓子の籠をたくさん持っているのに、私は何一つ持っていそうもないと思ったのね。」
 アアミンガアドは、[#「は、」は底本では「、は」]ふと何かを思いついて、ちょっと飛び下りました。
「セエラさん、私莫迦ね、今まであのことに気がつかないなんて。」
「あのことって。」
「いいことなの。さっき伯母様から、お菓子の一杯つまった箱が届いたのよ。私お腹が一杯だったし、本のことで悩んでいたので、手もつけずにおいたの。中には肉饅頭ミイト・パイだの、ジャム菓子だの、甘パンだの、オレンジだの、赤葡萄酒あかぶどうしゅだの、無花果いちじくだの、チョコレエトだのが入ってるのよ。私ちょっと取りに行ってくるわ。ここで食べましょうよ。」
 セエラは食物たべものの話を聞くと、思わずくらくらしました。彼女はアアミンガアドの腕にしがみついて、
「でも、行って来られる?」といいました。
「来られるわよ。」アアミンガアドは戸の外に頭を出して、耳をすましました。「燈火あかりはすっかり消えてるわ。皆もう眠っちゃったのね。だから、そっと誰にもわからないように、そっと這って行って来るわ。」
 二人は手をとりあってよろこびました。セエラはふと、また眼をきらめかせていいました。
「アアミイ! ね、またつもりになりましょうよ。宴会だってつもりにね。それからあの、隣の監房にいる囚人も御招待しない?」
「それがいいわ。さ、壁を叩きましょうよ。看守になんて聞えやしないでしょう。」
 セエラは壁ぎわに行って、四度壁を叩きました。
「これはね、『壁の下の脱道ぬけみちよりきたれ、お知らせしたいことがある』という意味なの。」
 向うから五つ打つ響がありました。
「ほら、来たわ。」
 戸があいて、眼を紅くしたベッキイが現れました。彼女はアアミンガアドがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛で顔を拭きはじめました。で、アアミンガアドはいいました。
「ちっともかまわないのよ、ベッキイ。」
「アアミンガアドさんのお招きなのよ。今いいものの入った箱を持って来て下さるんですって。」
「いいものって、何か食べるもの?」
「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」
「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」
 アアミンガアドはあまり急いだので、出しなに赤いショオルを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。
「お嬢様、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢様でしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」
 その時セエラは、眼にいつもの輝きをたたえながら、辛かった一日のあとに、ふいにこんな愉快なことが起ったのを、不思議に思い返していました。何か救いが来るものだ、まるで魔法のようだと、彼女は思いました。
「さ、泣かないで、テエブルを整えることにしましょう。」
 セエラはうれしそうにベッキイの手を握りました。
「テエブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」
 セエラは部屋の中を見廻して笑いました。テエブル掛も何もあるはずはありません。ふと、セエラは赤いショオルが落ちているのを見つけて、それを古いテエブルの上に掛けました。赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テエブルに赤いショオルが掛ると、部屋の中は急にひきたって来ました。
「これで、床に赤い敷物が敷いてあったら、すてきだわね。敷物のあるつもりになろう。」セエラが床に眼を落すと、そこにはもうちゃんと敷物が敷いてあるのでした。
「まア、何て厚くて、柔かなのでしょう。」
 セエラはベッキイの方に笑顔を向けながら、さも何か敷物でも踏むように、そっと足を下しました。
「ほんとに柔かね。」と、ベッキイも真顔でいいました。
「今度は何をしましょう。じっと考えて待っていると、何か思いつくものだわ。魔法の神様がそれを教えてくれるのだわ。」
 セエラのよくする空想の一つは、うちのそとでいろいろの思いつきが呼び出されるのを待っているというのでした。セエラがじっと立って何を待ち設けているのを、ベッキイはよく見ました。セエラはいつものようにしばらくじっと立っていましたが、やがてまたいつものように、明るい笑顔になりました。
「そら来た。私、何をすればいいか判ったわ。私が宮様プリンセス時代に持っていた、あの古鞄ふるかばんをあけてみましょう。」
 鞄の隅には小さな箱があり、その中に小さな手巾ハンケチが一ダース入っていました。セエラはそれを持っていそいそとテエブルの方に走って行き、レエスの縁がそり返るように工夫して、赤いテエブル掛の上に並べました。並べる間も、彼女は何か魔法に動かされているようでした。
「そこにお皿があるの。黄金こがねのお皿よ。それから、このナプキンには手のこんだ刺繍ししゅうがしてある。スペインの尼さんが尼寺の中でした刺繍なのよ。ほら、目に見えて来るでしょう。」
 セエラはまた鞄の中から、古い夏帽子を見附け出し、かざりの花を引きはがして、テエブルの上に飾りました。
「いい匂がするでしょう。」
 セエラは夢の中の人のように、幸福そうな微笑ほほえみをたたえながら、石鹸皿を雪花石膏アラバスタア水盤すいばんに見たてて、薔薇の花を盛りました。それから毛糸を包んだ紅白の薄紙で、お皿を折り、残った紙と花とは、蝋燭台を飾るのに用いました。セエラは一歩退いて、飾られたテエブルを眺めました。そこにあるのは、赤い肩掛をかけた古テエブルと、鞄から出した塵屑ごみくずとだけでしたが、セエラは魔法の力で、奇蹟が行われたのを見るのでした。ベッキイまで、そこらを見廻していうのでした。
「あの、これが――これが、あのバスティユ?――何かに変ってしまったの?」
「そうですとも。饗宴場きょうえんじょうに変ったのよ。」
 その時戸が開いて、アアミンガアドがよろよろと入ってきました。彼女は肌寒い暗闇の中から、すっかり飾られた部屋に入って来ると、思わず声をあげました。
「セエラさん、あなたみたいに何でも上手な方は見たことないわ。」
「すてきでしょう? 皆、古鞄の中にあったのよ。魔法の神に伺ってみたら、トランクを開けてみろと仰しゃったの。」
「でも、お嬢さん、セエラ嬢さんにいちいち何だか話しておもらいなさい。ね、あれはみんな――セエラ嬢さん、この方にも話しておあげなさいよ。」
 で、セエラはアアミンガアドに、黄金こがねのお皿のこと、まる天井のこと、燃えさかる丸太のこと、きらめく蝋燭のことなどを話して聞かせました。魔法の力の助けで、アアミンガアドもそれらのものをおぼろに見る気がしました。手籠の中から、寒天菓子や、果物や、ボンボンや、葡萄酒が取り出されるにつれ、宴会はすばらしいものになって来ました。
「まるで、夜会ね。」と、アアミンガアドは叫びました。
女王クウィイン様の食卓みたいだわ。」と、ベッキイは吐息をつきました。
 すると、アアミンガアドは眼を光らせて、
「こうしましょう、ね、セエラ。あなたは宮様プリンセスで、これは宮中きゅうちゅう御宴ぎょえんなの。」
「でも、今日の主催者はあなたじゃアないの。だから、あなたが宮様プリンセスで、私達は女官なの。」
「あら、私なんか肥っちょだから駄目よ。それに宮様プリンセスはどうするものだか、知らないんですもの。だから、やっぱりあなたの方がいいわ。」
「あなたがそう仰しゃるなら、それでもいいわ。」それから、またセエラは何か思いついたらしく、さびた煖炉の所に飛んで行きました。
「紙屑や塵がたまってるから、これに灯をつけると、ちょっと明くなるわ。すると、ほんとうに火のあるような気がするでしょう。」
 セエラは火をつけると、優雅しとやかに手をあげて、皆をまた食卓へ導きました。
「さア、お進みなされ御婦人方。饗宴のむしろにおつき召されよ。わがやんごとなき父君、国王様には、只今、ながの旅路におわせど、そなた達を饗宴にしょうぜよと、わらわ御諚ごじょう下されしぞ。何じゃ、楽士共か。六絃琴ヴァイオル、また低音喇叭バッスウンを奏でてたもれ。」そういってから、セエラは二人にいってきかせました。
宮様プリンセス方の宴会には、きっと音楽があったものなのよ。だから、あの隅に奏楽場そうがくじょうがあるつもりにしましょう。さ、始めましょう。」
 皆がお菓子をやっと手にとるかとらないうち、三人は思わず飛び上って、真蒼な顔を戸口の方へ向け、息をこらして耳を澄ましました。誰かが梯子を上って来るのです。もう何もかもおしまいだと、皆は思いました。
「きっと奥様よ。」ベッキーは思わずお菓子のかけらを取り落しました。
「そうよ。先生に見付かったのだわ。」
 セエラも真蒼になって、眼を見張りました。
 ミンチン先生は扉を叩きあけて入って来ました。怒りのあまり、先生の顔も真蒼でした。
「何かこそこそやってるようだとは思ってたけど、こんな大胆不敵なことをしようとは夢にも思わなかった。ラヴィニアのいったのはほんとうだ。」
 告口つげぐちをしたのはラヴィニアだと、三人は知りました。ミンチン先生は、足を鳴らして進みよると、またベッキイの耳を打ちました。
畜生ちくしょうめ、夜があけたら、さっさと出て行け。」
 セエラは身動きもせず立っていました。眼はいよいよ大きくなり、顔色はますます蒼ざめていきました。アアミンガアドはわっと泣き出しました。
「どうか、ベッキイを逐い出さないで下さい。伯母さんがこの手籠を下すったので、みんなで、ただあの――宴会ごっこをしていたのです。」
「案の定、プリンセス・セエラが上座に坐ってるね。皆セエラの仕業なんだ。ちゃんと解ってるよ。ベッキイ、お前はさっさと自分の部屋に帰れ。セエラ、お前の罰は明日だ。明日は朝から晩まで、何にも食べさしてやらないから。」
「今日だって、おひるも晩もいただきませんでしたよ。」
「そんならなおいいさ。何か心にこたえることをしてやらなければ。アアミンガアド、ぼんやり立ってるんじゃアないよ。食物を皆手籠にしまうんだよ。」
 ミンチン先生は、自分でテエブルの上のものを手籠の中へ払い落しましたが、またしてもセエラが大きな眼をして見詰めているのに気がつくと、先生はセエラに食ってかかりました。
「何を考えてるんだよ。なんだって、そんな眼をして私を見るんだよ。」
「私、お父様がこれを御覧になったら、何と仰しゃるだろう、と思っていましたの。」
 それを聞くと先生は、いつかの時のように腹が立ってたまらなくなりました。で、思わずセエラに飛びかかって、彼女のからだをゆすぶりました。
「まア、失敬な! ずうずうしいにも程がある。」
 先生は手籠や本をアアミンガアドの腕に押しこみ、彼女を小突いて先に立てながら、セエラの部屋を出て行きました。
 夢はすっかりさめてしまいました。炉の中の紙屑は消えて黒い燃殻もえがらになり、テエブルの上に飾ったものは、鞄の中にあった時のように古ぼけて、床に散らばっていました。セエラはエミリイが壁に寄りかかっているのを見付けると、震える手で抱き上げました。
「もう御馳走どころじゃアないのよ。宮様プリンセスもなにもいやしないのよ。バスティユの囚人がここにいるばかりだわ。」
 セエラはべたりと坐って、両手で顔を被おうとしました。その間にさっきの黒い顔が、また天窓の上に現れました。が、セエラはそれには気がつきませんでした。セエラはやがて立ち上って寝床の方に行きました。もう何のつもりになる張合はりあいもありませんでした。
「あの炉に火が入っているといいな。火の前には、気持のいい椅子テエブルがあって、暖かな晩御飯が乗っているといいな。それから、あの――」と薄っぺらな夜具をかけながら、「これが、柔かな寝台で、羊毛の毛布や、ふうわりした枕がついているのだったら、そして、それから――」
 セエラは思っているうち疲れはてて、いつかぐっすり眠ってしまいました。
          *        *        *
              *        *        *
 どれほど眠ったか、セエラには判りませんでした。彼女は疲れきっていましたので、メルチセデクが騒いでも、天窓から誰かが入って来ても、何にも知らずにぐっすり眠っておりました。
 天窓がぱたりと閉る音を聞いたと思いましたが、セエラは眠くてたまらないので――それに、何か妙にぽかぽか温かくて気持がいいので、すぐには眼を開けませんでした。余りの気持よさに、セエラは何だかまだ夢心地だったのでした。
「いい夢だわ。私、覚めなければいいと思うわ。」
 まったく夢にちがいありません。温かな夜具もかかっているようですし、毛布の肌触りも感ぜられます。手を出すと、繻子しゅす羽根蒲団はねぶとんらしいものが触るのです。セエラはこの夢から覚めまいと思って、一生懸命眼をつぶっていましたが、ぱちぱちと火のぜる音を聞くと、眼をあけずにはいられませんでした。眼を開けて見て、セエラはまだ夢を見ているのだと思いました。――
 炉にはあかあかとほのおが燃え立っています。炉棚の上には小さな真鍮の茶釜が、ふつふつと煮え立っています。床には厚い緋色の絨毯が、炉の前には、座褥クッションをのせた畳みこみの椅子が置いてあります。椅子のそばには白いテエブル掛をかけた小さな食卓が据えてあって、茶碗や、土瓶や、小皿や、きれをかけた料理のお皿などが並べられてあります。寝台の上には温かそうな寝衣ねまきや、繻子の羽根蒲団がかけてあります。寝台の下には、珍らしい綿入れの絹の服や、綿の入ったスリッパや、小さな本などが置いてあります。それに、テエブルの上には、薔薇色傘のついた明るいラムプが点っているのです。セエラは、夢の国から妖精の国に来たのではないかと思いました。
「消えてなくなりもしないようだわ。こんな夢って、見たこともないわ。」
 セエラは、しばらく寝台の上に肱をついて、部屋の中を見ていましたが、やがて、夜具を押しのけて、足を床に下しました。
「夢を見ながら、とこから出て行くのだわ。このままであればいい。私はこれがほんとなのだと、夢見ているのだわ。夢じゃアないと、夢のうちで思っているのだわ。魔法にかかった夢のようだわ。私も何だか魔法にかかっているようだわ。きっと私はただ見えると思ってるばかりなのよ。いつまでもそう思っていたいわ。でも、どうでもいいわ。どうでもいいわ。」
 セエラは、燃え立つ火の前に跪いて、火に手をかざして見ました。火に手を近づけすぎたので、熱さのあまり飛びさがりました。
「夢で見ただけの火なら、熱いはずはないわ。」
 セエラは飛び上って、テエブルや、お皿や、敷物に手を触れて見ました。それから、寝台の毛布に触ってみました。柔かな綿入の服を取り上げて、ふいに抱きしめ、頬ずりしました。
「温かくて、柔かだわ。本物に違いないわ。」
 セエラはその服をひっかけて、スリッパを穿きました。それから、よろよろと本の所へ行き、一番上の一冊を開いてみました。
『屋根裏部屋の少女へ、友人より』
 扉にそう書いてあるのを見ると、セエラはその上に顔を伏せて、泣き出しました。
「誰だか知らないけど、私に気を付けて下さる方があるのだわ。私にも、お友達があるのだわ。」
 セエラは蝋燭を持ってベッキイの所に行きました。ベッキイは眼を覚して、緋色の綿入服を着たセエラを見ると、吃驚びっくりして起き上りました。昔のままのプリンセス・セエラが立っていると、ベッキイは思いました。
「ベッキイ、来て御覧なさい。」
 ベッキイは、驚きのあまり口を利くことも出来ず、黙ってセエラに従いました。ベッキイはセエラの部屋に入ると、眼が廻りそうでした。
「みんなほんとなのよ。私、触って見たのよ。きっと私達の眠っているに、魔法使が来たのね。」

 


十六 お客様

 それから、その晩二人はどうしたか、出来るなら想像して御覧なさい。
 二人は火のそばに蹲って、料理皿にかけたきれをとって見ました。お皿の中には、二人で食べても食べきれないほどのおいしいスウプや、サンドウィッチや、丸麭麺マッフィンなどが入れてありました。ベッキイのお茶碗はないので、洗面台のうがい茶碗を使うことにしました。そのお茶のおいしさといったらありませんでした。これが、お茶でない何かほかのもののつもりになどはなれないくらいでした。二人はうえも寒さも忘れ、すっかり楽しい気持になりました。
「一体、誰がこんなにして下すったんでしょう? 誰かいるのにはちがいないわ。私を想ってて下さる方があるのだわ。ねエ、ベッキイ、その誰かは、きっと私のお友達なのよ。」
「あの――」と、ベッキイは一度口ごもってからいいました。「あの、お嬢さん、これみんな、けてってしまうんじゃアない? 早く片付けてしまった方がよくはない?」ベッキイは急いでサンドウィッチをほおばりました。
「大丈夫よ。私もさっき夢じゃアないかと思って、その火に触ってみたのよ。」
 おなかが一杯になると、セエラは、一人ではかけきれないほどある毛布を、ベッキイに分けてやりました。ベッキイは帰りしなに振り返って、貪るように室内を見廻しました。
「お嬢さま、これが皆朝になって消えちまっても、とにかく今夜だけはちゃんとあったんだから、私決して忘れないわ。」ベッキイは忘れまいとして、もう一度煖炉や、ラムプや、寝台や、とこを眺めまわしました。それから、ちょっと自分のお腹の上に手をおいて、
「こん中には、スウプに、サンドウィッチに、丸麭麺マッフィンが入って行ったんだわ。」と、それだけは確かそうにいいました。
 朝になると、生徒も、召使も、いつの間にか昨夜ゆうべの騒ぎを知っていました。皆は、セエラがどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。
 セエラは皆の眼を避けて、真直まっすぐに流し場へ行きました。ベッキイはせっせと茶釜を磨きながら、口の中で何かを口ずさんでいました。
「お嬢さん、眼がさめたらあってよ、毛布が。昨夜の通りよ。」
「私のもよ。私着物を着ながら、食べ残した冷いものを食べて来たわ。」
「そう、いいわね。」
 そこへ料理番が入って来たので、ベッキイはまた茶釜の上に、顔を俯向うつむけてしまいました。
 教室ではミンチン先生が、やはりセエラはどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。さすがのセエラも、今日はしょげて出て来るだろうと思っていました。が、不思議やセエラは血色のいい顔に微笑を湛え、踊るような足どりで入って来ました。ミンチン女史の驚きといったらありませんでした。
「お前には、自分が恥しい目にあってるのが、判らないのかい?」
「すみません。私、それはよく知っております。」
「そんなら、その気で、そんな、何かいい事でもあったような顔をするものではない。生意気だよ。それから、今日は一日何にも食べられないのだということを、忘れないがいいよ。」
「はい、忘れません。」
 いいながらセエラは、魔法のおかげがなかったら、今頃はさぞひもじかったろうに、と思いました。
「セエラは、大してひもじそうじゃアないわね。」と、ラヴィニアは囁きました。「まるで、朝飯に何かおいしいものでも食べて来たような顔をしているわ。」
「あの子は、普通の人達とは違ってるのよ。」とジェッシイは、フランス語を教えているセエラの方を見ながらいいました。「私、時々セエラが怖くなるわ。」
「莫迦ね。」
 セエラはいろいろ考えた末、昨夜起ったことは、誰にもいうまいと決心しました。ミンチン先生が屋根裏に上って来ればおしまいですが、ここしばらくは大丈夫だろうと思いました。アアミンガアドやロッティは、見張りがきびしいから、当分忍んで来るわけにもいかないでしょう。それに魔法の神様も、きっとこの奇蹟を隠して下さるでしょう。
「どんなことが起ろうと、私には目に見えないお友達があるのだからいいわ。」
 その日は、前日よりもお天気が悪い上、セエラは昨夜のことがあるので、よけい辛くあたられました。が、セエラはもう何にも怖いとは思いませんでした。夕方までには多少おなかも空いて来ましたが、セエラは今にまた御馳走が食べられるのだと思っていました。
 夜更けて、一人自分の部屋の前に立った時、セエラの胸はさすがにどきどきしました。
「ことによると、もうすっかり片付けられてしまったかもしれないわ。昨夜だけちょっと私に貸してくれたものなのかもしれないわ。でも、借りたのは事実だったのだわ。夢でもなんでもなかったのだわ。」
 セエラは部屋に入ると、すぐ戸を閉め、それに背をもたせて、隅々を見廻しました。魔法の神は、留守の間にまたここを見舞ったと見えます。昨夜なかったものまでが持ちこまれてありました。低い食卓の上には、またしても御飯の支度がしてありました。しかも、今日はコップも、お皿も皆二人前そろえてあるのです。炉の上の棚には、目のさめるような刺繍をしたきれが敷いてあり、二三の置物が飾ってありました。醜いものは、すべて垂帷とばりで隠してありました。美しい扇や壁掛が、鋭い鋲で壁にとめてありました。木の箱には敷物が掛けてあり、その上には、いくつかの座褥クッションが乗っていて、寝椅子の形に出来ていました。
「まるで、何かお伽噺にあることみたいだわ。何でも、欲しいといえば出て来るような気がするわ。ダイヤモンドでも、黄金こがねの袋でも、お伽噺よりも不思議なくらいだわ。これが、昨日までの屋根裏部屋なのかしら? 私も、あの凍えた、汚いセエラだとは思えないくらいだわ。私はいつもお伽噺がほんとになるのを見とどけたいと思っていたのよ。ところが、今私はお伽噺の中に住んでるんだわ。私自身も妖女フェアリーになったような気がするわ。そして、何でも変えることが出来るような気がするわ。」
 セエラは壁を打って、隣の囚人を呼び出しました。ベッキイは、今夜は自分の紅茶茶碗でお茶をいただきました。
 セエラはしんに就く時、また新しい厚い敷蒲団と、大きな羽根枕のあるのを見つけました。昨夜のは、いつの間にかベッキイの寝床に移されていたのでした。
「ぜんたいどこから来るんでしょう? お嬢さん、ほんとに誰がするんでしょう?」
「訊くのはよしましょうよ。私、知らないでいた方がいいと思うわ。でも、その誰かに、『ありがとう!』とだけはいいたいわね。」
 その時以来、世の中はだんだん愉快になって来ました。お伽噺はうち続きました。たいてい毎日、何かしら新しいことが起りました。夜、セエラが戸を開けるごとに、室内には何か新しい装飾が施され、何か少しずつ居心地よくなっているのでした。そうこうするうち、屋根裏部屋は、いろいろの珍らしい贅沢なものの一杯ある美しい部屋になってしまいました。朝出て行く時には、前の晩の食べ残しが置いてあるのに、夜帰って来てみると、食べ残しは綺麗に片付けられ、また別な美味が置き並べられてあるのでした。
 セエラはこうした幸福と慰めとのため、だんだん健康になり、希望に充ちて来ました。相変らず皆からはひどく扱われましたが、どんな時にも、屋根裏に帰りさえすればと思うと、辛いとも思いませんでした。
「セエラ・クルウは、大変丈夫そうになったじゃアないか。」と、ミンチン先生は不服そうに妹にいいました。
「ほんとに、だんだん肥って来たようですね。まるで餓えた烏みたいになりかけていたのに。」
「餓えただって? 食べたいだけ食べさしてあるのに、餓えるはずはないじゃないか。」
 アメリア嬢は、へまな口をすべらしたと思って、おどおどと、
「そ、そりゃアそうですけど。」と、合槌あいづちをうちました。
「あの子の年で、あんな風なのは、不愉快だよ。」
「あんな風なって?」
「いわば反抗心とでもいうんだろうね。たいていの子供は、あんな境遇の変化に逢ったら、意地も元気もなくなっちまうはずなのに、あの子はまるで、まだ宮様プリンセスかなんぞのように、しゃんとしているんったもの。」
「姉様、憶えていらしって? あの、いつかセエラが教室でこういった時のことを。先生はどうなさるでしょう、もし私が――」
「そんなこと憶えちゃアいないよ。つまらないことはいうものじゃない。」
 争われないもので、ベッキイも近頃はむくむく肥り出し、何か落ちつきが出て来ました。肥るまいと思っても肥り出し、怯えようとしても怯えられなくなったのだから仕方ありません。彼女もやはり、誰も知らないあのお伽噺のおかげをこうむっていたからでした。今は彼女も、敷蒲団は二枚あるし、枕も二つ持っています。毎晩温かな御飯を食べ、火の燃えている炉のそばに坐ることが出来るのでした。バスティユの牢獄はいつか消え去り、囚人は影も見えなくなりました。その代りに二人の幸せな子供が、よろこびにひたっているばかりでした。時とすると、セエラは書物を取り上げ、声を出して読んだりしました。時とするとまた、じっと炉の火を見詰め、あのお友達は誰だろう、どうかして自分の胸に感じていることを、その人に伝える術はないものだろうか、などと思いに耽りました。
 すると、また素敵な事件が起きて来ました。ある日一人の男が玄関に来て、いくつかの小包を置いて行きました。その宛名は、『右手屋根裏部屋の少女へ』とだけ大きく書いてあるのでした。
 小包を取りにやられたのは、ほかならぬセエラでした。彼女が一番大きい包みを二つ、客間のテエブルの上に置いて、宛名を眺めていますと、そこへミンチン先生が入って来ました。
「宛名のお嬢さんのところへさっさと持っておいで。そんな所に立ってじろじろ見てるんじゃアないよ。」
「でも、これは私のです。」と、セエラは静かにいいました。
「お前のだって? 何をいってるんだよ。」
「どこから来たのだか存じませんけど、宛名は私なんでございます。私の眠るのは右手の屋根裏です。ベッキイは左ですから。」
 ミンチン女史は、セエラのそばへやって来て、昂奮した顔つきで小包を眺めました。
「何が入ってるんだい?」
「存じません。」
「開けてごらん。」
 セエラはいわれた通りにしました。中から出て来たのは、着心地のよさそうな美しい衣裳でした。靴、靴下、手套てぶくろ、美しい上衣、それから見事な帽子、雨傘――すべて、上等な高価な品ばかりでした。その上、上衣のポケットには、こんなことを書いた紙片かみぎれが、ピンで留めてありました。
平常ふだんにお着なさい。換える必要があったら、いつでも換えて上げます。」
 それを見ると、ミンチン女史は卑しい心の中に、何か不思議なことがあるなとさとりました。あるいは自分は思いちがいをしていたのかもしれない。この孤児みなしご背後うしろには、誰か変りものの、しかし勢力のある友人があったのかもしれない。あるいは誰か今まで知られていなかった親戚があって、ふとセエラの居所をつきとめた上、こんな妙な方法で彼女の世話をしはじめたのかもしれない。親戚にはよく変人があるものです。殊に年とった、金持で独身ひとりみの伯父などというものは、子供をそばに置くことをいやがって、遠くの方から、その子の様子を見守っていたりするものです。またそんな伯父はきまって癇癪持かんしゃくもちで、怒りっぽいものです。だから、もしそんな人がいて、セエラのひどい様子を見たら、いい気持のするはずはありません。ミンチン女史は、妙に不安な気持になりました。で、彼女はセエラを横目でちらと見て、セエラの父が亡くなって以来使ったことのない、やさしい声でいいました。
「きっとどなたか御親切な方があるのですよ。こんなものをいただいたのだから、それに痛めば新しいのと換えて下さるというのだから、それに着かえて、きちんとしているようになさい。着かえたら教室に来て、自分の勉強をなさい。今日はもうどこへも使に行かないでいいから。」
 着がえをすまして、セエラが教室に入って行くと、生徒達は驚きのあまり声も出ませんでした。
「まア驚いた。」とジェッシイはラヴィニアの肱をつっつきながら、頓狂な声でいいました。「すっかりプリンセス・セエラになり戻っちゃったじゃアないの。」
 ラヴィニアは真紅まっかになりました。
 ジェッシイのいった通り、今入ってきたセエラは、プリンセス・セエラでした。少くとも、セエラはプリンセス時代以来、今日のように身綺麗にしていたことはありませんでした。彼女は二三時間前までのセエラとは似ても似つかぬ服装なりをしていました。
「きっと誰かが、あの子に財産を残したのね。」と、ジェッシイは囁きました。「私、いつでもあの子には何かしら起ると思ってたわ。」
「きっと、ダイヤモンド鉱山でも、また出て来たんでしょうよ。」とラヴィニアは、とげとげしくいいました。「そんな眼で見ると、あの子がいい気になるからおよしなさいよ。莫迦ね。」
 ふいに、ミンチン先生が太い声でいいました。
「セエラさん、ここへ来てお坐んなさい。」
 で、セエラは昔坐っていた名誉の席につき、俯向いて本を読み始めました。
 セエラはその夜、部屋に帰って、ベッキイと夕飯をすますと、永いこと炉の火を見詰めて黙っていました。
「お嬢さん、何かお話を作ってらっしゃるの?」
「いいえ、私、どうすればいいのだろうと考えているの。私あの方のことを考えずにはいられないのよ。でも、あの方は何にも知られたくないのかもしれないでしょう。そんなら、あの方がどんな方だか探り出したりしちゃア、失礼になるでしょう。でも私、どんなにあの方をありがたく思ってるか――どんなに幸福しあわせにしていただけたか、ということを、あの方に申し上げたくてならないの。親切な人ってものは、お礼はいわれたくなくても、幸福しあわせになったかどうかは、知りたいものよ。私、私、ほんとに――」
 いいかけてセエラは、ふとテエブルの上の文房具箱に眼をとめました。紙や、封筒や、インクや、ペンの入ったその箱は、一昨日おとといここに運びこまれていたものでした。
「まア私、どうして、今まであれに気がつかなかったんでしょう。私お手紙を書いて、あのテエブルの上にのせておくわ。そうすれば、きっと片付けに来る方が、手紙も一緒に持ってって下さるわ。」
 そこで、セエラは次のような手紙を書きました。

 あなたは、御自分を秘密に遊ばしたい御所存でいらっしゃいますのに、こんな手紙をさし上げる失礼をお赦し下さい。私は決して失礼なことをしたり、何かさぐり出そうとしたりなどするつもりはないのでございます。ただ、これほどまでに御親切にして下さったこと、何もかもお伽噺のようにして下さったことに対して、一言お礼を申し上げたいのでございます。あなたの御恩は決して忘れません。私も、ベッキイも、それはそれは幸福しあわせです。私共は、ほんとうにいつも寂しく、寒く、空腹がちでしたのに、今は――あなたはまア、私共のために大変なことをして下さいましたのね。お礼だけは言ってもよろしいでございましょう。いわねば済まぬような気が致します。ありがとう! ほんとうにありがとうございます。

屋根裏部屋の少女


 セエラは翌朝この手紙をテエブルの上にのせておきました。夕方帰ってみると、手紙は他のものと一緒に持ち去られたようでした。セエラは、手紙が首尾よく魔法使に届いたのだと思うと、一層幸福になりました。その晩、セエラがベッキイに新しい本を読んで聞かせていますと、天窓のところにふと何か音がしました。
「何かいるのよ、お嬢さん。」
「そうね、何だか、猫が入りたがっているような音ね。ひょっとすると、またあのお猿が脱け出して来たのかもしれないわ。」
 セエラは椅子の上に立って、気を配りながら天窓をあけ、外を覗きました。雪の日で、白く積った窓の外に、震えながら蹲っているものがありました。
「やっぱり猿よ。きっと東印度水夫ラスカアの屋根裏から這出はいだして、このあかりにひかれてここへ来たのよ。」
 ベッキイは走り寄っていいました。
「お嬢さん、入れてやるつもり?」
「ええ、お猿を外に出しといちゃア、寒すぎて可哀そうよ。猿は寒さに弱いのよ。私、だまして入れてやろう。」
 セエラは、いつも雀やメルチセデクに話しかける時のように、片手をさしのべながら、あやすように話しかけました。そうしているとセエラは、セエラ自身まるで何か小さな人なつっこい獣で、内気で野蛮な獣の気持をよくのみこんでいるようでした。
「お猿さん、入らっしゃいな。私、苛めやしないことよ。」
 そんなことは猿も知っていました。で、セエラがそっと手を取り、天窓の上にさし上げた時も、されるままになっていました。セエラが抱きしめると、猿もセエラの胸にしがみつき、髪の毛を親しげに握って、セエラの顔を覗きこみました。
「いいお猿だこと。私、小さな生物いきものが大好きよ。」
 猿は火にありついてうれしそうでした。セエラが坐って、膝の上にのせてやりますと、猿は物珍らしげに、彼女とベッキイとを見比べました。
「この子は不器量ね、お嬢さん。」
「ほんとに、不器量な赤ん坊のような顔をしているわ。お猿さん、御免なさい。でも、お前、赤ちゃんでなくてよかったわ。お前のお母さんは、まさかお前を自慢するわけにもいかないでしょう。御親戚のどなたに似てらっしゃるなどとうっかりお世辞をいうわけにもいかないしね。でも私、ほんとにお前が好きよ。」
 セエラは椅子にもたれて、思い返しました。
「この子だって、きっと器量が悪いので悲観しているのよ。その事がしょっちゅう心にあるんだわ。でも、猿に心なんてあるかしら? 可愛いお猿さん、あなたには心がおありでございますか?」
 が、猿はただ小さい手をあげて、頭を掻いただけでした。
「お嬢さん、この猿、どうするの?」
「今夜は、私の所におとまよ。明日になったら、印度の小父さんの所へ伴れて行くつもり。私はお前を返すのが惜しいのだけどね、でも、お前は帰らなきゃアいけないのよ。お前は家中うちじゅうで一番可愛がられるようにならなきゃアいけませんよ。」
 セエラは眠る時、自分の足許に猿の巣をつくってやりました。すると、猿はその巣が気に行ったらしく、赤ん坊のようにその中にうずまって眠りこみました。


十七 「この子だ」

 翌日あくるひの午後には、大屋敷の子が三人印度紳士の書斎に坐って、病人の気をひきたてようとしていました。子供達は、特に病人から来てくれといわれたので、来て病人を慰めているのでした。印度紳士は、ここしばらくの間、生きた心地もないほどでしたが、今日こそは、ある事を熱心に待ち受けておりました。そのある事というのは、カアマイクル氏がモスコウから帰って来ることでした。氏の帰朝は、予定より何週間も遅れたのでした。初めモスコウに着いた時には、もとめる家族がどこにいるものか、少しも判りませんでした。やっと尋ね当てて行ってみますと、あいにく旅行中で不在でした。旅先に追いかけて行こうとしても無駄だったので、氏はその人達の帰るまでモスコウで待つことにしたのでした。
 カリスフォド氏は安楽椅子に寄りかかり、ジャネットはその下に坐っていました。ノラは足台を見付けて坐り、ドウナルド(ギイ・クラアレンスのこと)は皮の敷物の飾りについている虎の頭にまたがっていました。少年はかなり乱暴に頭をゆすっていました。
「ドウナルド、そんなにさわぐんじゃアありませんよ。」と、ジャネットはいいました。「御病人に元気をつけてあげようっていう時には、そんな金切声を出すものじゃアありませんよ。カリスフォド小父さん、喧しすぎやしなくて。」
 病人は、彼女の肩を軽く叩いて、
「いや、そんなことはない。噪いでくれた方が、考えごとを忘れていいのだよ。」
「僕は、これから静かにするよ。」と、ドウナルドはいいました。「みんなで、二十日鼠のようにおとなしくしようじゃアないか。」
「二十日鼠が、そんな大きな音をさせるものですか。」
 ドウナルドは手巾ハンカチあぶみを造り、虎の頭の上で跳ね躍りました。
「鼠がありったけ出て来たら、このぐらいの音はさせるよ。千匹ぐらいいりゃア、するよ。」
「五万匹集ったって、そんな音しやしないわ。一匹の鼠ぐらい、おとなしくしなきゃア駄目よ。」
 カリスフォド氏は笑って、また彼女の肩を叩きました。
「お父様は、もうじきお着きになるのね。あの行方不明の娘さんの話をしてもよろしくって?」
「私は今、その話よりほか、とても出来そうにない。」
 印度紳士は、疲れた顔の額に皺をよせました。
「私達は、その子がそれは好きなのよ。みんなでその子のことを、『妖女フェアリイではないプリンセス』って呼んでるの。」
「なぜ、そう呼ぶの?」
「こういうわけなの。あの子は、ほんとうは妖女フェアリイじゃアないけど、見付かった時には、まるでお伽噺の中のプリンセスみたいに、お金持になるのでしょう。初めは『妖女フェアリイの国のプリンセス』といってたんですけど、そいじゃアしっくりいかないから、『妖女フェアリイじゃアないプリンセス』にしたの。」
 すると[#「すると」は底本では「す と」]、ノラはいいました。
「あの、あの子のお父様がダイヤモンド鉱山のために、お金をすっかりお友達にあげてしまったって話は、ほんとなの? そして、そのお友達は、そのお金をすっかり失くしたと思ったので、自分は泥棒のようなものだと思って、逃げ出したのですって?」
 ジャネットは急いで、
「でも、その方は、泥棒でも何でもなかったのよ。」といいました。
 印度紳士は、つとジャネットの手を取りました。
「まったく、そうじゃアなかったのだよ。」
「私、その方がお気の毒でならないの。」と、ジャネットはいいました。「その方は、お金を失くすつもりなんかなかったのよ。そんなことになって、どんなに胸を痛めたでしょう。きっと、お苦しみになったでしょうね。」
 すると、印度紳士はジャネットの手を、ひしと握りしめて、いいました。
「あなたは、何でもわかる若い御婦人だね。」
「姉さん、カリスフォド小父さんに、あの話をした?」と、ドウナルドが大きな声を立てました。「あの『乞食じゃアない小さな女の子』の話をさ。あの子がいい着物を着てるって、話した? きっとあの子も、今まで行方不明だったのを、誰かに見付け出されたのだよ。」
「あら、馬車が来た。」と、ジャネットが叫びました。「うちの前で止ったわ。お父様のお帰りだわ。」
 皆は窓の所へ飛んで行きました。
「ああ、お父さんだよ。」と、ドウナルドが告げました。「でも、小っちゃな女の子はいないよ。」
 三人はじっとしていられなくなったので、先を争って玄関へ飛び出しました。お父様がお帰りになると、いつも子供達はそうして迎え入れるのでした。三人が飛び上ったり、手をったり、抱き上げられて接吻されたりしている気配が、部屋の中にいても、はっきり感じられました。
 カリスフォド氏は立ち上りかけて、またどかりと椅子の中に身を落しました。
「駄目だ、俺は何というやくざな人間だろう。」
 カアマイクル氏の声が、戸口に近づいて来ました。
「今は、駄目だよ。カリスフォドさんとお話をすましてからにしてくれ。その間、ラム・ダスと遊んでたらいいだろう。」
 戸が開いて、カアマイクル氏が入って来ました。氏は前よりも血色がよく、活々いきいきした顔をしていましたが、眼には失望の色を湛えていました。病人の待ちかねた眼付を見ると、氏はよけい気づかわしげになりました。
「どうだった?」と、カリスフォド氏が訊ねました。「ロシヤ人がひきとったというその子は、どうだった?」
「その子は、我々の探している娘じゃアなかったのです。クルウ大尉の娘よりは、ずっと年下でしてね。名前はエミリイ・クルウなのです。私はその子と会って話して来ました。ロシヤ人の家族は、委細を聞かしてくれましたよ。」
 印度の紳士の失望といったらありませんでした。紳士は今まで握っていたカアマイクル氏の手を離して、だらりと自分の手を落しました。
「それじゃア、また捜索をやりかえさなければならないんだな。じゃア、やりなおすまでのことだ。まア、そこに掛けたまえ。」
 カアマイクル氏は腰を下しました。彼は自分が健康で幸福しあわせなせいか、この不幸な病人が、気の毒で、だんだん好きになって来るのでした。このうちの中に一人でも子供がいたら、少しは寂しさもまぎれるだろうに。こうして一人の男が、一人の子供を不幸にしているという思いのため、絶え間なく悶えているとは――大屋敷の主人は、病人に元気をつけるようにいいました。
「大丈夫、まだ見つけられますよ。」
「すぐまた捜索を始めにゃアならん。ぐずぐずしちゃアいられない。」カリスフォド氏はいらいらして来ました。「君、何か新しい心当りはないだろうか?――何かちょっとした心当りでも。」
 カアマイクル氏も落ちつかない風に立ち上り、考えながら部屋の中を歩き廻りました。
「何かありそうでもありますな。どれだけの根拠があるかは、私にも判りませんが、というのはドオヴァからここまでの汽車の中で、いろいろ考えているうち、ふと思いついたんですが。」
「どんなことです? あの娘が生きてるとすると、どこかにいるわけだ。」
「その通り、どこかにいるはずなのですよ。パリイの学校スクールという学校スクールは、もう捜索の余地がありません。だから、今度はパリイを切り上げて、ロンドンに移るんですな。つまり、ロンドンに捜索の手を移すというのが、私の思いつきです。」
「ロンドンにも無数の学校がある。」カリスフォド氏はそういってから、ふと何かを思い出して、かすかに身を起しました。「そら、隣にだって一つあるじゃアないか。」
「じゃア、隣から始めることにしたらいかがです。近い所から始めるとすると、隣より近いところはないわけですからな。」
「その通りだ。それに隣には一人私の眼をつけている娘がある。だが、その子は生徒じゃアないんだ。ちょっと色の黒い孤児みなしごで、とても、クルウ大尉の子供とは思われないけれど。」
 ちょうどその時、あの魔法が――あの手際のいい魔法が、また働き出したのでしょう。ちょうど印度の紳士がそういった時、ふとラム・ダスが入って来て、主人に額手礼サラアムをしました。黒い眼には隠しきれない昂奮の色を湛えていました。
「旦那様、あの子が自分でやってまいりました、あの旦那様が、可哀そうだと仰しゃった娘が。屋根づたいにあの娘の部屋に来たといって、猿を伴れてまいりました。ちょっと待っているように申しておきましたが、会ってお話になったら、少しはおまぎれになりはしませんでしょうか。」
「あの子とは?」と、大屋敷の父が訊ねました。
「それあの子さ、今噂をしていた娘のことさ。学校の小使をしているんだ。」印度の紳士はそういうと、今度はラム・ダスの方に手を振っていいました。「よろしい、その子に会ってみたいから、伴れて来なさい。」そしてまた、カアマイクル氏の方にいいました。「実は君の留守中、寂しくてたまらないところへ、ラム・ダスが来て、不幸なあの子の話をしてくれたのさ。で、ラム・ダスと共力きょうりょくして、あの子を助ける工夫をしたのだよ。子供だましのようなことだけれど、そんなことでもないと、私はつまらなかったのだ。だが、ラム・ダスのあの軽い足がなかったら、あんなはなしのような計画は実現出来なかったろうよ。」
 そこへ、セエラが入って来ました。猿は、出来ればいつまでもセエラのそばを離れたくなさそうな顔をしていました。
「また、あなたのお猿が逃げて来ましたのよ。」とセエラは頬を紅らめ、さわやかな声でいいました。「昨晩ゆうべ、私の部屋の窓の所に来ましたので、寒いといけないと思って、入れてあげましたの。宵の口だと、すぐお返しに上るのでしたけど、あまり遅いのでやめました。あなたは御病気ですから、せっかくお休みになってるところを、お起しでもすることになると悪いと、思いまして。」
 印度紳士のうつろな眼は、セエラの方に惹かれて行きました。
「それはどうも。よく気が付いて下すったねえ。」
 セエラは、戸口の近くに立っているラム・ダスの方を向きました。
「お猿は、あのラスカアの方にお渡ししましょうか。」
「あの男がラスカアだということを、どうして御存じかね?」
 紳士はほほえみかけました。
 セエラは、いやがる猿をラム・ダスに渡しながら、
「そりゃア知っておりますわ。私、印度で生れたのですもの。」
 印度紳士は顔色を変えて、立ち上りました。セエラはちょっと吃驚びっくりしました。
「あなたは、印度で生れたと? それは、ほんとですか? ちょっとこっちへ来て御覧。」
 手をさし出されたので、セエラは紳士の方に行き、紳士の手の上に、自分の手を置きました。彼女はじっと立って、緑鼠色あおねずみいろの眼で不思議そうに紳士の眼を見ました。この人は、どうかしたにちがいない。――
「あなたは、隣に住んでおられるのだね。」
「はい、ミンチン女塾におりますの。」
「でも、生徒ではないのだね?」
 セエラは、口許に妙な微笑ほほえみを漂わせました。彼女は、ちょっとためらってからいいました。
「私、自分が何なのだか、よく判りませんの。」
「それは、またどうして?」
「はじめは生徒で、特別の寄宿生でしたけれど、今はもう――」
「生徒だった? そして、今は何なのかね?」
 セエラは、また妙に悲しげな微笑を口許にただよわせました。
「今は私、屋根裏部屋で、小使娘の隣に寝ております。そして、料理番の使に出されたり――料理番のいうことは何でも聞かなくちゃアならないのです。それから、小さい人達の勉強も受けもっています。」
 カリスフォド氏は、力を失ったように椅子の中に身を落しました。
「カアマイクル君、君この子に訊いてくれたまえ。私は、もう駄目だ。」
 大屋敷の父親は、小さな娘と話すのが上手でした。彼は美しい声で、はげますようにセエラに話しかけました。
「ね、嬢や、その『はじめ』っていうのは、いったいどういう意味なの?」
「お父様が、あそこへ私を伴れていらしった時のことですわ。」
「そして、そのお父様はどこにおられるの?」
「亡くなりましたの。」セエラは静かに静かにいいました。「お父様は、何もかも失くしてしまったので、私のいただくものは、もう何にもなかったのです。それに、私の世話をしてくれるものは一人もないし、ミンチン先生にお金を払って下さる方もないので――」
「カアマイクル君!」印度紳士は声高に呼びかけました。「カアマイクル君!」
 カアマイクル氏は、小声で紳士に、
「この子を怯えさせちゃアいけませんよ。」と耳打ちしました。それから、声を改めてセエラにいいました。
「じゃア、そんなわけで屋根裏にやられ、小使にされてしまったのだね。そういうわけだったのだね。」
「誰も、面倒をみて下さる方がなかったものですから。お金はちっともありませんでしたし、私は、もう誰のものでもなかったのです。」
「お父さんは、どうしてお金を失くしたのだね?」
 印度紳士は、息をのみながら口をはさみました。
「御自分で失くしたわけじゃアないんですの。仲のいいお友達があって――お父様は、その方がそれはお好きでしたのよ。お金を取ったのは、その方なの。お父様は、その方を信じすぎたものですから。」
 印度紳士の息づかいは一層せわしくなりました。
「でも、その友人には、何も悪気があったわけじゃアないのかもしれんよ。何かの手違いからそんなことになったのかもしれんよ。」
 セエラはそれに答えた時、自分の声がどうしてこんなにげきしているのか、不思議なくらいでした。激して響くと知っていたら、病気の紳士のためにも、どうかして押し静めようとしたにちがいありません。
「どのみち、お父様にとって、苦しみは同じことでしたわ。お父様は、その苦しみのためにお亡くなりになったのですもの。」
「お父さんの名は何ていうのだい? え?」と、印度紳士は訊ねました。
「ラルフ・クルウって名ですの。クルウ大尉ともいわれていました。亡くなったのは印度ですの。」
 病人のやつれた顔が痙攣けいれんしました。ラム・ダスは急いで主人のそばへ飛び寄りました。
「カアマイクル君、これがあの子だ。この子にちがいない。」
 セエラは、紳士が死ぬのではないかと思ったほどでした。ラム・ダスは主人の口に薬を注ぎました。セエラは、そのそばにふるえながら立っていました。彼女はたまげたようにカアマイクル氏を見上げました。
「私が、何の子だと仰しゃるの?」
「この方は、あなたのお父様のお友達なのですよ。びっくりしちゃアいけません。我々は二年の間、あなたを探し廻っていたのですよ。」
 セエラは手を額にあてました。唇はわなわなふるえていました。セエラはまるで夢の中にいるように思わず囁きました。
「それなのに、私はその二年の間、壁のすぐ向う側の、ミンチン女塾にいたのだわ。」


十八 「つもりはなかった」

 くわしい話をセエラにしてくれたのは、美しい、感じのいいカアマイクルの奥様でした。カアマイクル夫人はばれるとすぐ、街を横切って印度紳士の家に来、セエラをその暖かい腕にいだきとって、これまでのいきさつを細かに話してくれたのでした。カリスフォド氏は、この思いがけない出来事に昂奮して、病気のからだに障るほどでした。
「私は誓って、あの子を手放したくない。」
 身体に障るといけないから、セエラを別室につれて行こうという話が出た時、カリスフォド氏は力なげに、カアマイクル氏にそういいました。
「この方のお世話は、私がしてあげてよ。」と、ジャネットはいいました。「もうじき、お母様も入らっしゃるでしょう。」
 ジャネットは、セエラを書斎から伴れ出すと、こういいました。
「あなたが見付かって、私達はうれしくてたまらないのよ。どんなにうれしがってるか、あなたにはとてもおわかりにならないくらいよ。」
 ドナルドは両手をポケットに入れて立っていました。彼は省みて自分を責めているようでした。
「僕がお金を上げた時、ちょっとあなたの名前を訊きさえしたらよかったのにね。あなたはきっとセエラ・クルウだと答えたでしょう。そうすれば、あなたを探す世話もなかったのに。」
 そこへ、カアマイクル夫人が入って来たのでした。夫人はひどく感動しているようでした。彼女は、ふいにセエラを抱きしめて接吻しました。
「嬢やは、すっかりたまげているのね。でも、驚くのに不思議はありませんわね。」
 セエラは、何といわれても、次の一事よりほか考えられませんでした。彼女は閉った書斎の扉の方をちらと見ていいました。
「あの方ね、あの方が、お父様のその、悪いお友達だったの? ほんとうにそうなの?」
 カアマイクル夫人は泣きながら、またセエラに接吻しました。この子は永いこと接吻などされたことはなかったのだから、何度も何度も接吻してやらなければならない、と夫人は思いました。
「あの方は、決して悪い方じゃアなかったのですよ。あの方は、あなたのお父様のお金を、失くしてしまったわけではないのですよ。ただお失くしになったと思っただけなのですよ。それに、あの方はお父様を愛していらしったからこそ、悲しみのあまり御病気になって、一時は気さえ確かではなかったほどなのですよ。あの方も、熱病で死にそうだったのよ。けれど、あなたのお父様はあの方の御病気がまだ悪いさなかに、亡くなっておしまいになったのですよ。」
「そうして、あの方は、どこに私がいるかは御存じなかったのね。私はこんな近くにいたのに。」
 セエラの頭にはなぜか、こんな近くにいたのにということが、こびりついていました。
「あの方は、あなたがパリイの学校にいらっしゃるとばかり思っていらしったのですよ。」カアマイクル夫人は、いって聞かせました。「それに、いつもいつも間違った手掛りに迷わされていらしったんですの。でも、あの方は到る所、あなたを探し廻ってらしったんですよ。あなたが、いたましい様子で通りかかるのを見ていながらも、それが気の毒な友人のお子だとはお気づきにならなかったのね。でも、あの方は、あなたもやはり小さい女の子だもので、気の毒でたまらなくって、どうかしてあなたを幸福しあわせにしてあげようとお思いになったのね。で、あの方はラム・ダスにいいつけて、あなたのお部屋の天窓から、いろいろのものを持ちこんだわけなのですよ。」
 セエラは、うれしさのあまり飛び立つばかりでした。彼女の顔色はみるみる変って来ました。
「じゃア、あれは皆ラム・ダスさんが持って来て下すったんですの? あの方がラム・ダスさんにおいいつけになったんですって? 私の夢をうつつにして下すったのは、それじゃア、あの方だったのだわね。」
「そうですとも。あの方は、親切ないい方なのですよ。あの方は、行方のしれないセエラ・クルウのことを想えばこそ、あなたのこともお気の毒になったのですよ。」
 書斎の扉が開いて、カアマイクル氏が姿を見せ、セエラに来いというような様子をしました。
「カリスフォドさんは、すっかり気持がよくおなりです。だから、あなたに来ていただきたいと仰しゃってです。」
 セエラは、カアマイクル氏の言葉が終るのを待たず、書斎に入って行きました。入って行った時のセエラの顔は、さっきとはまるで変っていました。
 セエラは、紳士の椅子のかたわらに立ち、両手を腕に組み合せて、うれしそうにいいました。
「あなたがあの、美しいものをたくさん下すったのですってね。」
「そうだよ、可愛い嬢や、私が送ってあげたのだよ。」
 紳士は永い間の病気や心配のため、心も体も弱りはてていました。が、彼は、セエラを抱きしめてもやりたいというようなやさしい眼で、セエラを見ました。セエラは父からこれに似たまなざしをよく受けたものでした。で、セエラはそのまなざしを見ると、すぐ紳士の傍に跪きました。昔父とセエラが無二の親友であり、愛人同士だった頃、父の傍に跪いたように。
「じゃア、私のお友達はあなたでしたのね。あなたが私のお友達だったのですわねエ。」
 そういうとセエラは、紳士の痩せ細った手の上に顔を押しあてて、幾度も幾度も接吻しました。
 それを見ると、カアマイクル氏は細君に囁きました。
「あの人も、もう三週間とたたぬうちに、きっと元の身体になるだろうよ。ほら、あの様子を御覧。」
 カアマイクル氏のいった通り、紳士の様子はすっかり変ってしまいました。『小さな奥様』が見付かったからには、また何か新しい計画を考えなければなりません。まず第一に、ミンチン先生の問題がありました。一応先生にも面会の上、生徒の一身上に起きた変化を、報告しなければならないでしょう。そして、セエラはもう学校には戻らないことになりました。印度紳士はその点だけは、何といっても聞きませんでした。セエラは紳士の家にとどまらなければならぬ、ミンチン先生のところへは、カアマイクル氏が行って、話して来るというのでした。
「帰らなくてもいいんですって? まアうれしい。」とセエラはいいました。「先生は、きっとお怒りになってよ。あの方は、私がお嫌いなのよ。でも、それは私が悪いからかもしれませんわ。なぜって、私の方でも先生が嫌いなのですもの。」
 だが、そこへちょうどミンチン先生自身が、セエラを探しにやって来ましたので、カアマイクル氏はわざわざ出掛けて行かないでもすみました。
          *        *        *
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 その晩、学校では皆いつものように、教室の煖炉の前に集っていました。そこへ、アアミンガアドが一通の手紙を持って、丸い顔に、妙な表情を浮べながら入って来ました。
「どうしたの?」と、二三人一時に叫びました。
「私、たった今、セエラさんから、この御手紙いただいたの。」
「セエラからですって?」「セエラはどこにいるの?」
「おとなりよ。印度の小父さんの所にいるのよ。」
「え? あの子は逐い出されたの?」「ミンチン先生は、そのことを知っているの?」「どうして、手紙なんかくれたの?」「よう、話してったら。」
 余りの騒ぎにロッティなどは泣き出しました。アアミンガアドはのろのろ説明し始めました。
「ダイヤモンドの鉱山はやっぱりあったのよ。やっぱりあったんですって。」
 開いた口と、見張った眼とが、彼女の方に向けられました。
「あの話は真実ほんとうだったのよ。何か起って、ちょっとの間カリスフォドさんももう駄目だと――」
「カリスフォドさんて?」とジェッシイは叫びました。
「印度の紳士よ。それからクルウ大尉も、やっぱりそう思って――死んでしまったのよ。それから、カリスフォドさんも熱病で死にかけたんですって。そして、あの人にはセエラがどこにいるか判らなかったんですって。それから、お山には何百万も何百万ものダイヤモンドがあると判ったの。その半分はセエラさんのものなの。それなのにセエラさんは、メルチセデクだけをお友達にして、屋根裏に住んでいたのね。今日カリスフォドさんがセエラを見付けて伴れてってしまったの。もう決して帰って来ないのよ。せんよりも、もっと立派なプリンセスになるのよ。十五万倍も立派になるのよ。――明日のおひるから、私セエラさんに会いに行くのよ。」
 あとは、ミンチン女史も静めかねるような騒ぎでした。少女達は規則なぞ忘れて、夜半よなかまで教室にとどまり、アアミンガアドをかこんで、セエラの手紙を読み返しておりました。手紙の話は、セエラのつくり話などとは比べものにならないほど、奇想天外でした。それに、その話はセエラその人と、隣家のあの印度紳士との間に起った話なので、ひどく魅惑チャアムがあるのでした。
 この話を耳にしたベッキイは、いつもより早めに屋根裏に上って行きました。彼女は皆から離れて、もう一度、あの小さな魔法の部屋が見たかったのでした。「あの部屋はどうなるのだろう。」ミンチン先生の手に渡るようなことはなさそうに思えました。「何もかも取り払われて、屋根裏はもとの通り空虚からっぽな殺風景なものになってしまうのだろう。」ベッキイは、セエラのためにはこんなことになってうれしいとは思いましたが、後のことを思うと、上って行くうちに自然喉がつまり、眼が曇って来ました。「もう今頃は火の気もないだろう。薔薇色のラムプもないだろう。夕餉ゆうげもないだろう。火のほてりを受けながらお話をしてくれたり、本をよんでくれたりするプリンセスもいないのだろう。あのプリンセスも!」
 ベッキイはしゃくり上げて来る欷歔すすりなきを、ごくりとのみこみながら戸を押しあけました。と、思わず彼女は声を立てました。
 ラムプは室内に照りはえ、火は燃えさかり、夕餉の支度もちゃんと出来ています。そしてラム・ダスが笑いながら、彼女の方を見て立っているのです。
「お嬢様がお気づきになりましてね。ご主人様に、すっかりあなたのことをお話しになりましたのですよ。お嬢様は、御自分の幸運しあわせを、あなたにお知らせしたがっていらっしゃるのですよ。このお盆の上のお手紙を御覧下さい。お嬢様がお書きになったのです。お嬢様は、あなたが悲しくお休みにならないようにとお思いになったのでしょう。御主人は、明日あなたにも来ていただきたいと仰しゃっておいででした。明日から、あなたはお嬢様のお附きになるはずです。今夜は、これからここにあるものを、また屋根越しに持って帰らなければなりません。」
 輝かしい顔で、こういい終りますと、ラム・ダスは額手礼サラアムをして、身軽に、音も立てずに、天窓から抜け出して行きました。ベッキイはそれを見ると、「あの人はあんなにして、やすやすといろいろのものを運びこんだのだな。」と思いました。

 


十九 アンヌ

『大屋敷』の子供部屋は、今までにないような大騒ぎでした。子供達は『乞食じゃアない小さな女の子』と近づきになったため、こうまでうれしいことが湧き出て来ようとは、夢にも思いませんでした。セエラは、ひどい苦労をして来ていることのために、よけい皆から大事にされるのでした。誰も彼もが、セエラの身の上話を、繰り返し繰り返し聞きたがりました。誰しも炉辺で温かにしている時には、屋根裏のひどい寒さの話なども、気持よく聞くことが出来るものです。また、メルチセデクのことや、雀共のことや、天窓から頭を出すと見える四辺よもの景色のことなど聞くと、屋根裏部屋は面白い所のように思われるのがあたりまえです。そんな面白いことがあれば、寒くても、殺風景でも、そんなことは気になるまいと思われるのが当然です。
 子供達が一番よろこんだのは、あの饗宴と空想とがほんとになって現れて来たところでした。セエラはカリスフォド氏に見つけられた翌日、初めてこの話をしたのでした。その日、大屋敷の人達はお茶に招ばれ、セエラと一緒に炉の前に坐ったり、蹲ったりしていました。そこで、セエラは例の調子で、その話をしたのでした。印度の紳士も、セエラを見守りながら、耳を傾けていました。話し終るとセエラは印度の紳士を見上げ、紳士の膝に手をかけていいました。
「私のお話はこれだけですの。今度は小父さんの方のお話を聞かして下さいな、アンクル・トム。」紳士の望みで、セエラは紳士を『アンクル・トム』と呼んでいました。「小父さんのお話は、まだ伺いませんのね。きっと立派なのにちがいないわね。」
 そこで、カリスフォド氏はこう語り出しました。病気で物憂く、いらいらしている時でした。一人寂しく坐っていると、ラム・ダスはよく外を通って行く人の品定めをして、病人の気をかえようとしました。中でも一番よく前を通って行くのは、一人の女の子でした。カリスフォド氏はちょうど見付からぬ小さい娘のことを絶えず考えていたところでした。それにラム・ダスから、猿を逃がして、その子の部屋に捕えに行った時の話を聞くと、何かその子に心を惹かれるように感じました。ラム・ダスはその娘の顔色の悪いこと、またその子の様子が召使になどされる下層社会の子らしくないということなども話して聞かせました。ラム・ダスは話すたびに、こんなこともございましたよと、その子の生活の惨めな事実を見付けて来るのでした。ラム・ダスはまた、屋根を伝って行けば、造作なく天窓からその子の部屋に入れるということも話しました。で、そこからすべての計画が始まったわけでした。
「旦那様!」と、ある日ラム・ダスは申しました。「あの子が使に出た留守に、屋根から入って、あの子の部屋に火をおこしておいてやることも出来ると存じます。あの子は濡れ凍えて帰って来て、火を見ると、きっと留守の間に魔法使がおこしておいてくれたのだと思うでございましょう。」
 この思いつきは、非常に奇抜でしたので、カリスフォド氏も、暗い顔に輝かしい微笑を湛えたほどでした。それを見ると、ラム・ダスは夢中になって、火をおこす他に、これこれのこともやろうと思えば造作なく出来ます、と主人に話しました。ラム・ダスの思いつきや計画は、子供じみていて愉快でした。それを実行する準備に忙しかったので、いつもは退屈な永い日が、愉快に飛びすぎて行くようでした。折角の饗宴を、始めない先にミンチン先生に見付けられたあの晩は、ラムダスは持って行くものをすっかり自分の部屋に用意して、天窓から様子を見ていたのでした。彼の背後うしろには、彼と同じにこの冒険に夢中になっている人が、彼を手伝うためにひかえておりました。彼は石盤瓦スレエトの上に腹這いになって、天窓から、折角の饗宴がめちゃめちゃにされるところも、ちゃんと見ていました。で彼は、セエラが疲れはててぐっすり寝こんでしまったのを知ると、火を細くした燈籠カンテラを持って、そっとセエラの部屋に忍びこみ、助手が天窓の外からさし出す品を、中で受け取ったのでした。セエラが寝ながらちょっと身動きした時などは、ラム・ダスは燈籠カンテラの火を隠して、床の上に平たく身を伏せたりしました。――子供達は、後から後から質問してこれだけのこと――いやまだいろいろのことを、カリスフォド小父さんから、聞き出したのでした。
「私、ほんとにうれしいわ。」と、セエラはいいました。「私のお友達が小父さんだったのだと思うと、うれしくてたまらないわ。」
 セエラと小父さんとは、たちまち非常な仲よしになりました。二人はいろいろのことで、不思議にしっくりと気が合うのでした。印度紳士は、今までにこんなの気の合う人とめぐりあったことはありませんでした。一月とたたぬうち、彼は、カアマイクル氏が予言したように、まったく別人のようになりました。紳士はいつも愉快そうで、気がひきたっているようでした。あんなに重荷にしていた財産も、今は持っていてよかったと思っていました。まだまだセエラのためにしてやることは、いくらでもあるのです。二人は戯談じょうだんに、紳士を魔法使だということにしていました。で、彼はすっかり魔法使になりすまして、何かセエラを吃驚びっくりさせるようなことばかり考えていました。セエラはふと部屋の中に、美しい花が咲いているのを見つけたこともありました。と思うと、また枕の下から思いもつかなかったような小さな贈物が出て来ました。ある晩のこと、セエラが小父さんと坐っていると、ふと戸の外に、強い前脚で戸を掻くような音がしました。何かと思って、セエラが戸を開けてみますと、大きな犬――見事なロシアの猪狩犬ボアハウンドが立っていました。しかも、金銀で造った首輪には、次のような字が、浮き上っていました。
『我名はボリス。プリンセス・セエラのしもべ。』
 印度紳士の一番好んだのは、襤褸を着た宮様プリンセスの思い出でした。大屋敷の人達や、アアミンガアドやロッティの来る日も、にぎやかで愉快でしたが、セエラと印度紳士と二人きりで、本を読んだり話し合ったりする時間は、何か二人きりのものだというようで、特別うれしいのでした。二人で過す時間の間には、いろいろ面白いことが起りました。
 ある晩、カリスフォド氏は、書物から眼を上げて、セエラが身じろぎもせず、じっと火を見つめているのに、気がつきました。
「セエラ、何のつもりになっているの?」
 セエラは頬をぽっと輝かせました。
「こういうつもりだったの。――こういうことを思い出していたのよ。ある日大変ひもじかった時、私の見た子のことを。」
「でも、たいていの日はひもじかったんじゃアないのかい?」印度の紳士は悲しげな声でいいました。「どの日だったの?」
「あなたは、御存じなかったのね。あの夢が、まことになった日のことよ。」
 セエラはそういってから、パン屋の話をして聞かせました。溝の中から銀貨を一つ拾ったこと、拾ってから自分よりひもじそうな子に会ったことなど、セエラは何の飾りけもなく、出来るだけあっさりと話したつもりでしたが、印度紳士はたまらなくなったらしく、眼に手をかざして、床を見つめました。
 セエラは語り終ると、こういいました。
「で、私、こういうことを考えていたのよ。何かしてあげたいってつもりになっていたのよ。」
「どういうことをしてあげたいのだね? 女王殿下プリンセス。何でも、お好きなことを遊ばしませ。」
 セエラは、ややためらいながらいいました。
「私、あの――私には大変なお金があると仰しゃったわね。だから、私あの、あのパン屋のおかみさんの所へ行って、こういおうかしらと思っていましたの。ひもじそうな子が――殊にひどいお天気の日などに、店の前に来て坐ったり、窓から覗いていたりしていたら、呼び入れて、食べさしてやってくれって。そして、その書付かきつけは、私の方に廻してくれって。――そんなことをしてもいいでしょうか?」
「いいとも。早速、明日の朝行って来たらいいだろう。」
「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味っているでしょう。ひもじい時には、何かつもりになったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ。」
「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れる方がいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えている方がいい。」
「そうね。」と、セエラはほほえみました。「私、人の子達に、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね。」
 次の朝、ミンチン女史が窓の外を見ていますと、女史にとっては、実に見るにたえないようなことが眼に映りました。印度紳士のうちの前に馬車が着いて、毛皮にくるまれた紳士と少女が、玄関を降りて来るのでした。その見なれた少女の姿を目にすると、ミンチン女史は過ぎ去った日のことを思い起しました。すると、そこへもう一人、見なれた少女の姿が現れました。その姿を見ると女史はひどくいらだって来ました。いうまでもなくそれはベッキイでした。ベッキイはすっかり小間使こまづかいになりすまして、いそいそ若い御主人に従い、膝掛や手提を持って、馬車のところまで見送りに出て来たのでした。いつの間にかベッキイは血色もよく、むっちりと肥っていました。
 馬車はまもなく、パン屋の店先につけられました。馬車から二人が出て来た時には、不思議にもまた、ちょうどいつかの時のように、おかみさんが出来たてのパンを窓にさし入れていました。
 セエラが店に入って行きますと、おかみさんは振り返ってセエラの方を見ました。セエラを見ると、甘パンはうっちゃらかして、帳場の中に坐りました。おかみさんはしばらくの間、穴のあくほどセエラ[#「セエラ」は底本では「エセラ」]の顔を見つめていましたが、人のいい顔はじき、はればれとして来ました。
「確かに、お嬢様にはお目にかかったことがございますわ。でも――」
「ええ、お目にかかりましたわ。あの時あなたは、私に甘パンを六つも下さいましたわね。それから――」
「それから、あなたは六つのうち五つまで、あの乞食娘にやっておしまいになりましたのね。私はそのことが忘れられませんでしたの。初めは、何だかわけがわかりませんでしたけど。」
 おかみさんは、今度は印度紳士の方に向き直って、こう話しかけました。
「失礼でございますが、旦那様。こんなお小さいのに、他人がひもじいかどうかなんて気のつくお子は、お珍しゅうございますわ。私、そのことを、幾度も幾度も考えてみたのでございますよ。これは、とんだことを申してしまいました。お嬢様、でも、あなた様はまア、お顔色がよくおなりですこと――それに、あの、以前よりはずっとお丈夫そうに、そして、お立派に――」
「おかげさまで丈夫よ。それに――以前よりはずっと幸福しあわせになったのよ。――で、私、あなたにお願いがあって来たの。」
「私に、お願いですって?」と、おかみさんはうれしそうに笑いました。「まアお嬢様、それはそれは、どんな御用でございますの?」
 そこで、セエラは帳場によりかかって、お天気の悪い日、ひもじそうな宿無やどなしの子を見たら、パンを恵んでやってくれと、頼みました。
 おかみさんは話の間、セエラをじっと見つめて、びっくりしたような顔をしていました。が、聞き終るとまた、
「まア、それはそれは。」といいました。「私に施しをさせて下さるなんて、うれしゅうございますわ。御覧の通り、私はほんのもうその日暮しで、自分の力ではとても大したことは出来ないんでございますの。気の毒な人はそこら中におりますのにね。でも、失礼か存じませんが、ちょっとお耳に入れておきたいことがございますの。あの日以来、雨の日には、あなた様のことを思い起して、少しずつパンを恵んでやることにしているのでございますよ。――あの日は、ほんとに寒くて、ひもじそうでいらっしゃいましたわね。それなのに、あなた様は、まるでプリンセスかなにかのように、惜しげもなく甘パンを施しておしまいになりましたのね。」
 プリンセスと聞くと、印度の紳士は思わず微笑しました。セエラも、あの子のぼろぼろな膝にパンを置きながら、心の中でつぶやいたことを思い起して、ちょっと微笑しました。
「あの娘は、ひもじそうだったわ。」と、セエラはいいました。「私よりもひもじそうだったわね。」
「もう死にそうにお腹がすいていたのでございますよ。あの子は、あれからよく私に、あの時のことを話してくれましたが――ぐしょぐしょになって坐っていると、可哀そうに、自分のお腹の中で、狼がはらわたを食い裂いているような気がしましたって。」
「あら、それじゃアあなた、あれから、あの子に会ったの? 今どこにいるか、御存じ?」
「存じておりますとも。」おかみさんは、いつよりもよけい人のよさそうな顔をして笑いました。「そらあそこに、ね、お嬢様、あの奥の部屋に、もう一月もいるんでございますよ。それに、あの子は、なかなかきちんとした、いい性質の子になりそうでございますよ。思いの他役に立ちましてね、店でも、台所でも、乞食をしていたとは思えないほど、手助けをしてくれますの。」
 おかみさんは、奥の戸口に歩みよって、声をかけました。すると、すぐ一人の娘が、おかみさんのうしろから、帳場に出て来ました、小綺麗な服をきちんと来て、もうひもじさなどは忘れたような顔をしていましたが、あの乞食娘にはちがいありませんでした。少女は羞しそうにしていましたが、可愛い顔立をしていました。今はもう人間らしい生活をしているためか、あの野蛮な眼付はすっかりなくなっていました。少女はふと見るとすぐ、セエラがいつかパンをくれた人だと知ったらしく、じっと立ったまま、いつまでも見あきぬようにセエラの顔を見つめておりました。
「ね、こうなのでございますよ。」と、おかみさんは説明しました。「ひもじい時にはいつでもおいで、と私が申したものでございますから、この子はよく店に来るようになりました。来ると、私は何か用をしてもらうようにしたのでございますよ。ところが、この子は何でもいやがらずにしてくれますので、私は何だか、だんだんこの子が好きになってまいりましたの。で、とうとううちに来てもらいましてね。この子は私の手伝いをしてくれるようになりました。お行儀もよいし、恩義も知っていますし、普通の娘とちっとも変りはありません。名前はアンヌと申します。アンヌとばかりで、苗字も何もないのでございますよ。」
 セエラとアンヌとは、ちょっとの間、ただ黙って、じっとお互の顔を見合っていました。やがて、セエラはマッフの中から手を出して、帳場の向うのアンヌの方にさし出しました。アンヌはその手を握りました。二人はまたお互に眼を見合せました。
「私、うれしくてよ。」と、セエラはいいました。「私、今しがた、いいことを考えていたの。きっとおかみさんは、あなたにパンを施させて下さるでしょう。あなたもきっと、その役をよろこんでして下さると思うわ。あなただって、ひもじい味はよく知ってらっしゃるのですものね。」
「はい、お嬢さん。」と、少女は答えました。
 アンヌは、それぎり何もいわず、つっ立っていたばかりでしたが、セエラには、アンヌの気持がよく解るような気がしました。アンヌは、いつまでもそこに立って、セエラが印度紳士と一緒に店を出、馬車に乗って去って行くのを、じっと見送っていました。